朝から阿波踊りを観ているうちに5時過ぎには白々と明るくなり、窓の外に昨日歩いた桑野川の堤防が見えました。
散歩の二日目はバスで海岸沿いを徳島駅まで行き、第十堰へ向かう予定ですが、7時52分のバスに乗る前にこの阿南市の水田を歩く計画です。
JR阿南駅のあたりから阿波橘駅まで、東側には島だったのではないかと思う場所がつながり、その真ん中に「打樋川」が通っていてその両側が水田地帯に見えます。桑野川の河口付近の右岸に「堤外」という地名があり、その南側には「日開野町」そしてさらに南側には「中水門」「上水門」といった干拓地を彷彿とさせる地名があります。
もしかして干拓地ではないかと検索してみたのですがよくわかりませんでした。
地図を拡大しながら眺めていると、水田地帯に「落雷前」という地名と落雷神社があり、前日に知った一ノ堰からの水路が通っているようです。
このあたりで引き返せば、ちょうどバスにも間に合いそうです。
6時15分にチェックアウトして、水路へと向かいました。
*阿南市街の水田地帯と水路*
ホテルの周囲もおそらく水田地帯だったのだろうと思われる平な場所で、あちこちに水路が通っています。
「谷田」の交差点で「落雷前」へと続く分水路沿いに入りました。左手は住宅地、右手は広々とした水田地帯で、水鏡に朝日が映る美しさは別格ですね。6時半ごろからトラクターで作業をする方がいらっしゃいました。
目指す落雷神社のあたりは他よりもわずかに高い場所に鎮守の森があり、遠目にもすぐわかりました。ほんの少しだけ上り坂になる手前は「髭作り」という地名で、左手は「光の大地」という住宅地でした。
どんな由来のある神社なのだろうと楽しみにして参道へ向かうと、「関係者以外立ち入り禁止」とありました。
神社で立ち入り禁止を申し渡されたのは初めてですが、もしかするとこの名前に惹かれて見にくる人の傍若無人ぶりの結果かもしれませんね。
あきらめて、先ほどの水路よりは南側の水路ぞいに駅方面へと向かいました。
海のそばだというのに四方を丘陵に囲まれているのは、やはりどこか倉敷や各地の干拓地に似ています。
JR牟岐線の列車が通過する音が、すぐ近くに感じるほどこだましています。
その名も「田中」へ入り、立派な住宅が水田地帯にありどこからかピアノの音が聞こえてきました。
野焼きの香りの中、「亀の内」へと歩くと分水路のそばに昭和28年(1953年)につくられた石碑がありました。
當才見地区の耕作地は地番毎に高低差甚だしく且區画複雑にて交通灌漑共に不便耕作上非常な労力を要○(読めず)しを昭和二十三年才見耕地整理組合を設立し関係面積六拾貳町歩總工費三千四百拾四萬圓を以て農道用排水路の整備區画整理等の事案を起こし爾来六ケ年の歳月と労力を○○○千人○○の遂行に(以下、石碑の表層が劣化して読めず)
そこから先南西へは農家の住宅へと道と水路が入り組んでいました。朝ごはんのお味噌汁の香りがどこからか漂ってきて、あちこちの庭で農機具を点検している姿がありました。
自宅用の小さな畑や畦道にフリージアが咲いていました。ほんとうに阿南はフリージアが多いですね。いつ頃、どのように広がったのでしょう。
*畦道から市街地へ*
水路沿いが住宅地になり、市街地に戻ってきました。
踏切へと向かう道の途中にカトリック教会があり、年表が刻まれた石碑に立ち止まりました。
ディオゴ結城了雪の略歴
1574年 阿波国に生まれる
1587年 秀吉の禁教令を受けて九州へ避難
1601年 伊藤マンショ、中浦ジュリアンらとともにマカオに留学、神学を研鑽する
1604年 帰国、有馬セミナリオにて教鞭をとる
1607年 京都伏見教会に赴任、この間阿波を訪れ、徳島藩主蜂須賀家政、平島公方足利義種の前でキリスト教を語る
1612年 長崎に転任、長崎セミナリオにて教鞭をとる
1613年 長崎司教座聖堂にて副助祭に叙階される。その後マニラの日本人街で司祭として働く
1616年 長崎にひそかに戻り、京都近辺の司牧の任命を受ける
1619年 京都の大殉教(52名)の折、彼らに付き添い励まし、彼らの遺体を葬る
1636年 阿波と讃岐の国境で捕まり、大阪へ護送され、拷問を受け殉教、享年61歳
2008年 11月24日、日本殉教者の一員として長崎において烈福
それぞれの時代の葛藤や変化に、自分がその時代だったらどういう判断や行動をしていたのだろうと考えては、こうした道端の石碑に立ちすくむことが増えました。
地図を眺めて干拓地らしい地形と興味深い地名をたどったところ、わずか一時間半の散歩でしたが充実したものになりました。
いつかはこのあたりの干拓の歴史をもう少したどりたいものです。
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