散歩をする 454 韮山土手和田から韮山城へ狩野川の旧河道のあたりを歩く

韮山反射炉からいよいよ狩野川の河道の変遷の歴史が名前になった韮山土手和田を目指します。

 

計画では歩く予定でしたが、6月初旬の20度の日差しのもと、午前中から歩いたので少々疲れました。真夏日や猛暑日からすると20度なんて寒そうに感じるのですが、季節に合わせて体が適応していく段階ですからね。

 

韮山反射炉にバス停があり13時53分に韮山城の近くまでいく便がちょうどあると喜んだら、休日のみの運行でした。

もう歩くしか選択がないので腹をくくり、歩き始めました。

山沿いには歴史をたどる遊歩道もあり魅力的でしたが、私の目的は「韮山土手和田」地区を見ることだったので交通量の多い県道136号線を歩き始めました。

 

狩野川が「自由奔放に流れていた」跡*

 

東側の山からの水路がまっすぐ西の狩野川へと流れ、水田地帯が広がっています。

国土交通省沼津河川国道事務所の「狩野川の歴史」を読むと、この県道136号線のあたりがかつては狩野川の河道だったこともあったようです。

 

その昔、南の海からプレートに乗ってやってきたと言われる伊豆半島。その中央部天城山系の山々を水源に、太平洋側の川としては珍しく南から北へと流れる狩野川は、千年以上も前から人々の暮らしの中心にありました。一方で、下流部に狭窄部を持つという地形的特徴と多雨地帯を流域に抱えることから往古より幾多の洪水を発生させてきました、往時の狩野川が自由奔放に流れていた様は、源頼朝流刑地蛭ヶ小島」など、川にまつわる地名が各所に点在することからもうかがい知ることができます。

 

東側の山裾がぐんと近づき始めたところで、県道と分かれて住宅地へと道が延びています。滔々と水が流れる水路に誘われたのと、県道沿いは忽然と歩道が無くなったのとで山側の道へと進みました。

 

「土手和田」という地名の地域ですが、想像していたような土手の痕跡もなくずっと平地に見えます。

水路に沿って枇杷イチジクが植えられ、白っぽい砂が倉敷の祖父母の水田地帯に似ています。

畑には6月初旬だというのにコスモスが咲いていました。

 

道なりに歩いていると、下校する中学生といき違うことが増えて中学校の前に来ました。

中学生や先生に挨拶されて、ちょっと恥ずかしくなりながら先を急ぎました。

美しい水路のそばが通学路なんてうらやましいですね。

 

しばらく歩くと県立韮山高校のグラウンドにつきあたり、右は韮山城跡への道です。行ってみたかったのですが蜂の季節ですからあきらめました。

ところでこの高校があるあたりは「韮山韮山」という地名ですが、どんな理由でそういう地名になったのでしょう。

 

ここから高校の敷地沿いの道を歩きましたが、石垣の一段高い場所に高校がありました。

そして低い位置に水路が真っ直ぐ続いています。

かつては韮山城のこのあたりまで狩野川が流れていた時期もあったのでしょうか。

 

水路が住宅地の間へと離れて、県道133号線に出ました。

ここからバスで韮山駅に戻ろうと思っていたのですが、せっかく来たので韮山高校の東側にある城池まで行ってみようと思いました。

 

水路の水面を眺めていると、どこまでも歩けそうな気持ちになるのが不思議です。

 

 

 

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