記録のあれこれ 164 「大久保甚之丞君の碑」

香川用水記念公園内の水の資料館で、あとでゆっくり読もうと大久保甚之丞(じんのじょう)氏を称える言葉を写真に撮っていました。

 

「大久保甚之丞君の碑」

 

 南海の地、俊峰雄嶺、南北を横断して、馬背の如く、四州割拠して、両辺風俗を異にし、産物を閉じ、古来僻陋(へきろう)に安んず。而(しか)して、これを開通して、一区となし、風俗を同じくし、産物を通じ、万民殷富(いんぷ)の基を創めしものを、大久保甚之丞君となす。

 君、人となり仁孝にして、胆略あり、温良にして、克(よ)く果断、国を思うこと家の如く、公に奉じて、私を忘る。凪に謂(いい)えらく、物産を殖し、商業を盛んにするには、宜しく、道路の開修より始むべしと。

性算数を好み、頗(すこぶ)る奥妙(おうみょう)に詣(いた)る。すなわち、私金を擲(なげう)ちて、四州の地理を測量し、或は、険峻を挙じ、或は榛莽(しんもう)を穿ち星行露宿、具に酸苦を嘗め、凡そ山川の高低、里程の遠近、暗記して明弁す。胸算既になり、然る後、これを世に公にして同志を募る。しかるに、封建の余習、旧を守り、新を厭い、自らを信じて、他を疑い、相応ずるもの甚だ少なし。君、単身、予讃土阿四州の間に奔走し、百万説論するに数年の力を尽し、始めて、同志を得て、これを官に訪(おとな)い、允許(いんきょ)を得たり。

 明治十八年、工を起こし、二十三年、竣を告ぐ。新道を得ること、凡そ五十余里、蕪を刈り、厳をうがち、狭きを拓きて、闊となし、阻を斫(き)り、夷となし、汗なるものは平らかに、迂なるものは直く、遠きものは近く、人馬痛せず、車軌仄(そく)せず、物資の運輸流るるが如く、人智発達して、日に文明に嚮(むか)い、異目視て、異域殊境となせしもの、今日開通して一郷の如し、人民の利便、言うべからず。

 この時にあたり、讃岐鉄道の工もまた興り、君与(あずか)りて力あり、他年延長して、四州に遍(あまね)く、その利便、さらに言うべからず。而して開通首唱の功は、君を推さざるを得ず。君の公益を図りしは独りこれのみならず郷党の諸川新に橋梁を架するもの大小九所、その費の過半は己にでず。又同志と謀りて、長谷池をほり、田およそ二十五町に漑(そそ)ぐ。時凶荒に属し、貧民工銭を得て、飢餓をまぬがるもの数百人なり。最も心を農桑に用い、広く菜穀百果の良苗を索(もと)めて、村民に分与し、又、率先して蚕を養い、糸を製すること十数年、その業盛大にして県内に冠たり。郷里の指定を奨励して、小学に就かしめ、俊秀なるものは、これを中学、或いは師範学校に入らしむ。僻陬(へきすう)、良医なきを憂え、学生を選びて医術を修めしめ、或はその資を給す。讃の地、膏腴(こうゆ)にして、流民四集し、人余りありて、田足らず。君自ら資を出し、毎歳数百人を北海道に移して、開墾に従事せしめ、又同志を募りて、一社を設け、資金を積みて、益々移住を図りしも、中道にして病に罹りて亡し。呼嗟、惜しむべきかな。君の先業豊富にして、一郷の素封と称せられ、義の為に、棄損少しもおしまず。死するの日、遺産、八口を糊するに足らず。国を思うこと家の如く、公に奉じ、私を忘るる者に非らざるよりは、いずくんぞ此に至らんや。事、朝廷に聞こえ銀盃を賜いてこれを追賞せらる。

 君、嘉永二年八月十六日、讃岐の国、三野郡財田村に生まれ、明治五年村吏となり、ついで副区長となり、三野、豊田二郡の勧業学務等の事を管し、又、愛媛県農談会、勧業諮問会、六郡農産共進会等の委員となり、二十年、愛媛県議会議員となり、二十二年、香川県議員に転じ、二十四年、閣竜世界博覧会委員となり、その十二月十四日歿す。享年四十二歳、村中の先塋(せんえい)に葬る。妻は同族利吉の女、一女を挙ぐ。菊枝という。義子衡平を配す。衡平早生す。孫男あり、豪と曰う。祀を承ぐ、祖父は与三治と称す。村民に勤めて甘蔗を植え、砂糖を製し、今日、一郷の盛を致せるは、その力多きに居る。又、阿讃の小道を改修し、運搬に便し、資を投じて、多度津港を助け築く。父は森治と称し、池をうがち、田を開き、果木を植え、村民を利すること少なからず。君は、第三男を以って家を継ぐ。その平生、公益を図りしは、皆父祖の志を継ぎしなり。兄を菊治と称し、能(よ)く先志を体し、君の四方に奔走するや、これに代わりて、家を守り、資を送り、君をして、内顧の憂なからしむ。弟を彦三郎と称す。学を好み、曽(か)って余の門にあり。君、これを介して余を見、談四州開通のことに及ぶ。余、これを賛して、集大成の三字を書して以って贈る。後、その能く衆志を集合し、大業を成すと聞き、甚だこれを喜びしに、幾ばくもなくしてその訃に接す。又、甚だこれを惜しむ。

 昨秋、財田村長正木美隣来りて碑銘を請いて曰く、一県有志の士、相謀りて、その功を朽ちざらしめんと欲すと。余、諾して未だ筆をとらず。隅々、備中に帰展し、遂に海を航して、彦三郎を訪(と)う。建碑の地を観るに爽がい(*土へんに豈)にして、眺嘱によろしく、南に連山の〇〇(*山かんむりに欽と山かんむりに戯)たるを仰いで、開鑿(さく)の勧苦を想い、北に多度津洋の商舶輻湊するを俯して、陸貨の輸出、この繁盛をいたせることを喜ぶ。嗚呼、余、一旅人にて、猶遺功を追感して己むことを能わず。いわんや、その地に住し、その利を受くる者においておや。帰京の後、銘を寄せ、その碑に刻ましめて曰く。

 始を慮るは維難し

 君独り○(*しんにょうに皇)々として 彼誘い此れ導き

 奔走狂せんと欲す

 成を楽しむ維易し

 民は欣々として

 南運北輸 車馬雲の如し

 陋(ろう)として開明に嚮(むか)わしめしは

 于嗟 誰の積ぞや

 峻をして平坦に変ぜしめしは

 于嗟 誰の力ぞや

 逶邐(いり)たる大道 四域に貫通し

 一歩半跬(はんき) 永く遺徳を懐(おも)う

 

 

(ふりがなは引用者による。また検索しても見つからない字もありました)

 

すぐれた調整役だけではなかったようです。

 

そして大久保甚之丞氏の一代一人の偉人伝ではなく、家族もまた「公益を図りしは、皆父祖の志を継ぎしなり」と言う家だったようです。

現代の世襲とは意味が全く異なりますね。

 

公共事業とは何か、経済とは何か、明治時代どころか奈良時代からも普遍的な意味が伝えられてきたのに、現代はかなり後退してしまったように思えてきました。

 

 

 

 

 

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