明治時代の3つの大きな水害により、高梁川の改修工事が現実に動き出して東西用水酒津樋ができたようです。
1911年に内務省直轄で始動した高梁川改修事業は、フランスで近代土木建築学を学び、後に港湾治水の祖と謳われた沖野忠雄技監が陣頭を指揮した。工事では全長24kmの堤防構築とともに干ばつ時に頻発した農業用水争いを鎮めるための川の両岸にあった11ヵ所の取水樋門を統合、用水を経済的かつ公平に分配する新たな樋門をRC構造で建設した(1924年)。
沖野忠雄技監、どこかでこの名前を引用した記憶があるような気がしてブログ内を検索すると、淀川改修工事でした。
当時、たびたび氾濫を起こし周辺住民を悩ませた淀川。沖野は新淀川の開削など本格的な治水対策を実施しました。工事は、外国製の掘削機を導入するなど当時の最新の理論と技術を用いた大規模なもので、沖野は、先に行われたオランダ技師デ・レーケらの工法を我が国の河川様式に修正応用するなど柔軟に工事を進めました。また、彼は人間的な魅力を併せ持ち、人一倍の部下思い出会ったと言われています。地位や名誉にも無頓着で、生涯、純粋な技師として、淀川、そして我が国の発展に貢献しました。
1909年(明治42)に淀川改修工事が完成したのちに、高梁川改修工事に関わったようです。
この文章を引用した2020年には高梁川改修工事のことは全く思い出さなかったので、知識が身になって年表が正確になっていくには時間がかかりますね。
*「治水土木に一生を捧げる…」*
沖野忠雄で検索すると、またたくさんの資料がありました。
その中で「沖野忠雄 略歴及び著書・論文等」(土木学会図書館)を読むと、淀川改修工事の前に河川法の制定や全国各地の主要な河川の修築工事に関わってきたことが書かれていました。
さて明治の河川行政にとってエポックとなったのは、明治29年(1896)の河川法の制定である。その実現には、淀川の改修期成運動が重要な推進力となったが、この淀川改良計画を現地の監督署々長として策定したのが沖野であった。24年から地元支出による測量が行われ、27年、沖野は内務大臣に「淀川高水防御工事計画意見書」を提出した。この後、土木技監・古市公威たちからなる技術官会議でこの意見書は審査され、若干の修正が命じられた。そして翌28年に改修計画となり、いつでも着工できる状況となったのである。河川法制定に対し、現場の実務面で沖野が重要な役割を果たしていたと評してよかろう。
(強調は引用者による)
これ以前の沖野の業績をみると、明治19年(1886)に「富士川改修計画意見書」を作成、また信濃川、北上川、庄川、阿賀野川の修築工事(低水路整備が中心)に従事した。その後22年大阪土木監督勤務となって木曽川、淀川を担当することとなったのである。明治29年度以降、40年度までに淀川ほか9河川で国直轄による改修事業が着手された。この時期、沖野は署長・所長として大阪にあったが、淀川改修のみならず、多くの直轄改修に関係していった。
今まで訪ねたあちこちの川とも深い関わりがあったようです。
沖野忠雄氏は豊岡藩出身で、「但馬の百科事典」(公益財団法人たんしん地域振興会)というサイトにその生い立ちから人柄まで書かれていました。
⚫️治水土木に一生を捧げる…
沖野忠雄は日本の治水港湾工事の始祖といわれ、大正7年に内務省を退官するまで、河川改修工事に彼が関わらなかったものはありません。その数多くの土木事業の中で、最も心血を注いだのが、淀川の改修工事と大阪築港事業です。
当時、淀川は大水の度に反乱を起こす暴れ川で、周辺の住民は家屋の浸水等の被害に悩まされました。そこで、洗堰を要所に設けて淀川の豊富な水量を調節、また、堤防も画一的にせず随所適切に定め、水害を防ぎました。
*現在の政治とは真逆*
土木学会図書館の「略歴」には、この退官までの様子が書かれています。
大正7年(1918)の退官まで、沖野は技監として予算権・人事権を一手に握り、全国の直轄改修を指導した。技監として歴代の大臣の信用も篤く、治水事業は沖野一任であったという。また事業の有利な進捗のためには法規一点張りの議論に耳を貸さず、内務省のローマ法皇と異名が付けられ、「あの老爺さんが大臣のところに行くときはすばらしい勢いであった」と、後々まで語られた。
(強調は引用者による)
この箇所だけ読むと一度握った権力を手放さないとか普遍性があるかのように巧みな言葉で利権を得るとか、政治家や官僚の満足のために国民が存在しているかのようなまさに今の政治の状況と重なり合うようですが、この時代の治水の歴史から受けている恩恵を知れば知るほど正反対だと思えてきました。
「但馬の百科事典」にはこんなことが書かれていました。
彼の人柄を表すエピソードとして、大阪築港建設の報奨金として、大阪市が送った数万円のお金を最後まで受け取らなかったという話が残っています。金銭や名誉には極めて無頓着で、派手なことには手を出さず、純技術家肌の人でした。土木事業の大御所となりながらも、その気取らない人柄は、数多くの人々から慕われました。
(強調は引用者による)
現代では数千万円にあたるようですが、裏金でもない報奨金ですからね、それさえも固辞した。
ここだけでも現代の多くの政治家の略歴には永遠と汚点が書かれることでしょうね。
「金銭や名誉には極めて無頓着で」
だからこそ、住民による住民のための運動である「期成運動」を理解でき、そして住民の声は何か、運動家の主義主張に利用されることなく現場の実務とは何か見極められることができ、土木技術に一生を捧げることができたのではないか、そんなことを想像しました。
「人の志」とか「人柄を保ち続ける」ということは、奥が深いと思うこの頃です。
*おまけ*
河川法という法律を知ったのは1990年代にダムを見て歩くようになった頃でした。
専門的なことはいまだにわからないままで、これもまたやり残した課題の一つでもあると思い出しました。
「行間を読む」まとめはこちら。
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