豊橋市内に牛川という地名があることに、もしかすると借耕牛(かりこうし)のような農耕牛がいた地域だろうか、それとも近代になって酪農が行われていたとかの歴史があるのだろうかと想像していました。
検索しても地名の由来はわからなかったのですが、豊川の左岸と右岸を結ぶ「牛川の渡し」があったことを知りました。
*「豊川の舟運(しゅううん)」*
愛知県のホームページに「今日は、とよがわ日和。」というサイトがあり、そこに牛川の渡しについて書かれていました。
豊川の舟運(しゅううん)、華やかなりしころのお話し(牛川の渡し)
豊橋創造大学の裏手に今も残る豊川の舟運、「牛川の渡し」に行ってきました。
牛川の渡しの歴史は古く平安時代までさかのぼるといわれています。かつて豊川には多くの渡しがあったとのことですが、現存するのは「牛川の渡し」のみで、豊橋市によって市道として運営されています。
牛川の渡しの渡船には自転車も載せることができるため、通勤・通学で利用される方がいるほか、地元の方、観光のお客さんなども含めて、1日に20人ほどの利用者がいるとのことです。(荒天などの場合を除き、年中無休で運行されています。
上空を見ると両岸にワイヤーが張られていて、渡船はこのワイヤーに結えられています。船頭さんにお話をうかがうと、海へ下す水流と上流に向けて吹く風の強さのバランスを見ながら竿を操作すれば、このワイヤーのお陰で苦労せずに対岸まで漕ぎつくことができるとのことでした。だいたい所要時間は5分とのことです。
「市道として運営」、こんな道の歴史もあるのですね。
富山県の越ノ潟の県営渡船を思い出しました。
あちらはフェリーで一回の乗船数も多いのですが、こちらは竿を使いながらですからよく保存されてきたものですね。
さて、船頭さんのお話によると、豊川はかつて東海道と飯田へ向かう伊那街道を結ぶ舟運が盛んで、多くの船が行き交ったとのことです。豊川加工から寒狭川・宇連川分岐地点あたりまでは勾配がなだらかなので、様々な物資が現在の新城市まで舟運された後、そこから陸路伊那街道を北へ運ばれました。また、年貢米や木材とその加工品などが、反対のルートを通って運ばれたとのことです。
このため、舟から馬へ馬から舟へと積み替えを行うための要衝である新城市は「山の湊(みなと)」と呼ばれていました。現在、新城市で毎月第4日曜日に行われている「しんしろ軽トラ市のんほいルロット」は、こうしたかつての山の湊の賑わいを再現していこうという取り組みです。
豊川(とよがわ)の舟の航路とつながりました。
*「牛川の渡し」再開へ*
この記事は2022年5月27日付ですが、その一年後に2023年6月2日の災害で運行が中止されたようです。
ああ、残念。本当に少しタイミングが悪いと、それまで長い間その地域を結んでいた公共交通機関に二度と乗ることができなくなる現代ですね。
財源がといわれるとぐうの音も出ないのですが、この渡船の技術や経験にしても何世紀にも渡るものが容赦なく無くなるのはどうにかならないものかと思う年代になりました。
さて、検索すると明るい話題が。
2023年12月9日の朝日新聞デジタルに、「「牛川の渡し」今年度内に再開へ 新たな船を建造中」とありました。
船着き場に係留していた船は6月2日の大雨で流された。その後、田原市の海岸で見つかった。損傷が激しく、廃船が決まった。市土木管理課によると、すでに船は建造中で、流された船と同規模の11人のりとなる見込み。
「一日20人程度」だったようなので廃船確実だろうと思ったのですが、やめるか残すかの判断には、それぞれの地域のどんな違いが影響しているのでしょう。
*もう一つ希望が見えた*
吉田城の北側にある「霞堤」の地域には「水神前」「八分取」と気になる地名があるのですが、航空写真で見ると人が歩けそうにない場所に感じました。
やはり「霞堤」のような場所は歩くことは無理なのだろうと諦めていました。
ところが「牛川の渡し」で検索していたら、「豊橋ウェブ百科事典」というサイトの「豊橋市の牛川の渡し」で、豊川左岸から右岸地域をぐるりと歩くことができることを知りました。
「牛川の渡しを使った船頭さんのおすすめコース」で、その名も「霞健康ウォーク」です。
これはぜひ、牛川の渡しが復活したら行ってみたいものですね。
ということで、うれしいやり残した宿題がまたできました。
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