水のあれこれ 154 堀岡から射水の水田地帯

朝の7時台だと県営渡船も1時間に4本あり、通勤通学で利用者が多いのだろうと想像していました。

越ノ潟フェリーの乗船場は、万葉線の越ノ潟駅の目の前です。

私以外には誰もいませんでした。

しばらくしてサイクリング車に乗った旅行者が一人、フェリーに乗るらしく到着しました。

 

対岸側からのフェリーが到着すると、中から高校生がたくさん降りてきました。

天候が悪い時には、新しい橋をタクシーで送迎する代行があるそうです。

私が乗った時間は秋晴れで風も全くなく、快適な5分間の船旅でしたが、天候が悪い時には乗員の方々も大変そうですね。

こちら側からは、乗客二人を乗せて船が出発しました。

 

遠くに立山連峰、反対側に富山湾が美しい海からの景色です。

80年代と90年代に行き来していた東南アジアでは小さな漁船や船が交通手段だった地域で、毎日のようにこうして船から陸の景色を眺めるという、今思えば贅沢な生活をしていました。

地図で越ノ潟フェリーの細い水色の線を発見した時に「これだ」と思ったのは、そんな記憶が蘇ってきたからでした。

 

あっという間の5分でしたが、散歩の醍醐味とも言える時間でした。

 

*堀岡の街*

 

ここから富山市赤十字病院までバスが出ているようです。30分ほど時間があったので、歩けるところまでバス路線を歩いて見ることにしました。

計画の段階で航空写真で確認したら、長細い砂州に沿ったように住宅街が続いています。

どんな街で、どんな歴史があるのだろうと楽しみです。

 

船着き場から住宅街が広がっていました。

昨年、印象に残った黒い瓦の落ち着いた街並みです。

フェリーに間に合わないのか自転車で疾走していく高校生とすれ違った以外、ほとんど誰とも出会わず、静かな朝の街を歩きました。

住宅の間に家庭菜園のような畑がところどころにあります。

この地域ではどんな仕事があり、どんな生活なのでしょう。

 

途中、暗渠になった水路沿いに広い遊歩道が整備されていて、草岡神社の前からは美しい水路と遊歩道になっていました。「射水市の水循環、再生モデル」と表示されていました。

水に癒されながら歩きました。

 

射水の水田地帯*

 

バスが来ましたが、しばらく乗客は私一人でした。

富山湾に沿って海沿いを走る路線で、堤防の向こうにところどころ海が見えます。

四方新という場所で海岸から離れ、神通川左岸沿いに内陸に入り、車窓の右手にはあの広大な水田地帯が広がっていました。

9月中旬なので半分ぐらい稲刈りがすんだ場所もあるのですが、まだまだ黄金色の風景が続いています。

これを見たかった!

 

こうしてブログに記録しながら気づいたのですが、このバス路線の途中で牛ヶ首用水で最も難関だった八ケ山の近くから流れる用水路を渡っていました。

気づかなかったのは本当に残念ですね。

このあたりも牛ヶ首用水によって、水田地帯になっていったのでしょうか。

 

射水市観光協会によると、「射水」という地名には長い歴史があるそうです。

射水市は、富山県を代表する大河である神通川庄川の間に広がる射水平野の大部分を占めています。射水平野は中小の河川や地下水に恵まれた土地として古くから栄えてきました。古代の人々は、水の湧出をあらわす言葉「イ」・「ミズ」にちなみ、この地を「イミズ」と読んだと考えられます。

平安時代に完成されたとされている地方の豪族などの系譜をまとめた書物『先代旧事本紀(くじほんぎ)』に、伊弥頭(イミズ)という行政区域を支配した豪族「伊弥頭国造(いみづのくにみやつこ)」がいたと記されています。

また、行政区域としての「射水郡」という地名は、奈良時代を代表する歌人大伴家持がまとめた『万葉集』の中で初めて登場します。

 

牛ヶ首用水ができたのが江戸時代の1633年ですから、それまでの田園風景はどんな感じだったのでしょう。

またぜひ、この水田地帯と水の歴史を尋ね歩いてみたいものです。

 

県立図書館のあたりから少し小高い場所にある富山大学の横を通過し、神通川を渡って40分ほどのバスの旅は終わりました。

 

 

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