買い物一つとっても、さまざまな歴史があり、それぞれの人の生活習慣が少しずつ変化してきたことによって社会も変化してきたのだろうと思います。
ただやはり思い返すとこの半世紀ほどは、人類にとって「買い物」も驚異的に変化する時代だったといえることでしょう。
1960年代は個人商店を回りながらの買い物だったのが、1970年代にはスーパーマーケットが広がりさらには郊外の大型商業施設へと変わりました。
便利さもありますが、それゆえに商店街が変わってしまったことに心が痛みながらも、時代の流れだから仕方がないかとその葛藤を納得させていました。
最近はその大型商業施設が閉店になるニュースが増え、とっくに個人商店も無くなってしまっていた街は買い物をどうするかという問題が出てきたようです。
今も商店街が活気がある街や駅前が寂れていない街、そして大型店も共存しているような街は何が違うのだろうと思いながら散歩をしています。
*急に変化させられることが増えた*
急激に生活を変えさせられることが増えたと感じるようになったのは、いつ頃からでしょうか。
なぜそう感じるようになったのかあれこれと考えているのですが、ある人にはとても便利だからと開発された物がそのまま販売され広がり、実際に起きた問題への対応が遅れるというあたりでしょうか。
「実証実験」という言葉で、大半の人が参加したり意見を言う場もないまま社会に実験が行われ、「大丈夫と証明されました」と煙に巻かれている感じですね。
電動キックボードもそうですが、最近急激に増えた電動アシスト自転車にヒヤリとすることが増えました。
さ〜っと音もなくすごいスピードで人混みをかわしていったり、重い車体なのに歩行者のギリギリのところを縦横無尽に走る人が多くて、今までの自転車以上の恐怖感を感じながら歩いています。
乗っている人は「私は急いでいるんだから」という感じですが、そのスピードと重量感の怖さは逆の立場にならないとわからないのかもしれません。
あれは自動車やバイクに匹敵する車両として、販売する前に自転車以上にルールや法律を徹底するべき物だったのではないかと思います。
なんの規制もない現状では、売った者がちですからね。
いまさら個別に注意するなんてトラブルの元ですし、たぶん社会の中には「危ないな」と鬱積した感情が渦巻いているはずだと思います。
道幅が広がったわけでもないし自転車専用道ができたわけでもなく、誰かにそのリスクや負担が皺寄せされているわけですから。
こうして最初は華々しく出現し、あとで「社会的失敗」だと気づいた時にはもう遅いですね。
本来、社会的な失敗を起こさないようにあらかじめその調整をするのが政治ではないかと思うのですが、生活や街の安全性がどう変わるかなんてお構いなしに利益誘導する手法で地味に生活を変えさせられている気持ちにさせられることが増えました。
「経済活動の自由」で社会に与える負の影響は想像できても先手を打って規制するということに対して抵抗が強い時代が続いた、とも言えるのかもしれないと思い返しています。
しかも誰かの思いつきかと思うような一声で。
時代の変化の葛藤は続きますね。
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