米のあれこれ 80 品川用水が潤した田んぼ

大崎周辺の高層ビルのあたりからS字カーブを抜けてきた下りの東海道新幹線がヘリポートの盆踊りの人たちの向こうを静かに過ぎていく風景をみていたら、昭和から平成そして令和の今はいつだったかとちょっと混乱する感覚に陥りました。

 

すぐに東急大井町線の高架橋があり、はっと我に帰った感じです。

下神明(しもしんみょう)駅をくぐると南側は少し窪んで低いようです。西側から都道420号線がきているのですが、この駅周辺で一旦途切れて工事中になっていました。再開発か何かでしょうか。少し前はどんな風景だったのだろうと気になりながら新幹線の高架橋に近づくように歩くと、見覚えのある場所になりました。

 

たぶん都内の散歩を始めた2017年ごろに、この品川区立豊葉(ほうよう)の杜学園の敷地の間の道を歩いた記憶があります。

北棟の校舎のすぐ後ろを新幹線が通過していきました。

 

その道が少しだけ南へと曲がるあたりに案内板がありました。

 

品川用水跡

 豊葉の杜学園の校舎の間を通る道路に沿って、かつて品川用水が流れていました。江戸時代、旱害(干害)に苦しむ品川領の村々では、灌漑用の用水開設を幕府に嘆願していました。寛文七年(一六六七)、願いがかない玉川上水から品川用水を引く工事が始まりました。多摩郡境村(現武蔵野市)の取水口から品川領まで延々約二〇kmにわたる難工事で、二年後に完成しました。

その結果、品川領九宿村(戸越村・下蛇窪村・上蛇窪村・大井村・南品川宿・二日五日市村・北品川宿・桐ヶ谷村・居木橋村)の農地を潤し、水田開発が進み米の収穫量は大幅に増加しました。

 その後、明治時代後期になると、農業用水としての需要は減り工業用水や消防用水などとしても利用されるようになります。やがて、宅地化が進むと徐々に下水化していきました。昭和二十三年(一九四八)、品川用水普通水利組合が当時の三鷹町へ水利権を譲渡し、品川用水は品川区内での役割を終えました。

 現在、水路は暗渠化などにより姿を消しましたが、人々に大きな恵みをもたらした品川用水の沿革を記して記念といたします。

  平成二十五年七月三十一日  品川区教育委員会

 

そうそう、この案内板も見覚えがあります。

玉川上水の水が武蔵野台地の上を通ってはるばるここまできていることが書かれていたからでした。

品川用水の歴史もたどりたいと気にはなっているのですが、現代ではほぼ下水用の暗渠になっているのでしょうか、なかなか出会うことがありませんでした。

 

「居木橋(いるきばし)」、今回の散歩のスタートで初めて知った目黒川にかかるあの橋です。

あのあたりまで玉川上水が水田を潤していたとは、実際に歩いてみて初めてつながりました。

武蔵野台地の末端の舌状台地にも小さな川や水源はあるのですが、満潮時には海水が遡上してくるので田んぼには使えなかったのでしょうか。

 

品川用水が潤した田んぼに稲穂が輝いていた時代、どんな風景だったのでしょう。

ふと、ヘリポートの盆踊りが江戸時代の風景のように混乱してきました。

 

 

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