散歩をする 492 S字カーブを大崎から歩き始める

昨年11月は晩秋というのに熊の活動が各地で活発で近場の散歩になり、初旬に武蔵野台地の舌状台地を確認しながら新幹線を眺めようと出かけました。

大崎から西大井まで線路沿いの地域を歩き、西大井からは立会川の暗渠部分を歩こうという計画です。

 

 

*大崎駅から沢庵和尚の墓へ*

 

13時30分大崎駅で下車し、新東口から都道317号線へと出ると近未来のような場所です。

ビルの一角に昔ながらの鮮魚屋さんの建物が残っていて、なんだかホッとしました。

山手線の駅の中では恵比寿と同じく変貌が激しい大崎駅です。

 

目黒川を新幹線と山手線が並走して越えて行くのが見えました。

手前に架かる車道の橋は「居木橋(いるきばし)」だと初めて知りました。

 

その橋を渡り新幹線の高架橋をくぐると見覚えのある石碑があります。そうそう目黒川沿いに天王洲アイルまで歩いた時に見たのでした。

品川区指定史跡 官営品川硝子製造所跡

 日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(一八七三)に東海寺境内に創設された興業社である。

 興業社は、明治九年(一八七六)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(一八八五)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(一八九二)に解散した。

 昭和三十六年(一九六一)に官営時代の建物は取り方づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市明治村に移築されている。

 平成二十七年八月三十一日

 

明治から昭和にかけて、大崎からこのあたりは目黒川河口に開けた工業地帯のような雰囲気だったのでしょうか。

 

そのすぐ先に東海道本線が通り、その手前にある坂道を登ったところにある沢庵和尚の墓が今回の最初の目的地でした。

新幹線の車窓から見える公園とその先の林のような場所に、このお墓があるようです。

小高い場所に登ると、目の前を同じ高さで新幹線が通過していきました。乗客の姿も見えます。

新幹線の線路を見下ろすような場所と想像していたので、ちょっとびっくりしました。少し手前の権現山公園は切り通しの上にあるのですが、その直後から高架橋へと変わるあたりでした。

 

ちょっと怪しい人になりながら、数本の新幹線を眺めたあと満足して坂を下りました。

そういえば地図には「春雨寺」とあったけれど寺院らしい建物はありません。よくよく見ると、新幹線の線路のそばに建つマンションの1階がお寺のようでした。

 

 

*目黒川を渡り、ぐんとS字に曲がる*

 

沢庵和尚さんのお墓のある小高い場所から下りると、すぐに目黒川が流れ、その橋を渡ると目の前に第一三共品川研究開発センターの大きな建物と敷地があります。

品川を出た新幹線がこのあたりから左へと傾きながら、南西へと向きを変える場所です。

 

都内へ戻ってくる時には、あの武蔵小杉でS字状カーブから多摩川を渡ると「無事に戻ってきた」とホッとして、さらにこの目黒川の手前で第一三共あたりからのビル群の間を斜めに走り始めると「もうじき品川だ」と安堵感を感じる場所です。

ぜひぜひこのS字カーブのそばを歩いてみたいと思っていました。

 

目黒川に架かる三嶽橋を渡って新幹線の高架橋のそばの道へと向かうと、そこはほとんど人通りのない場所で、もしかすると怪しい人と思われたのか、正門の守衛さんがしばらく私の方を見ていることに気づきました。

ずっと高架橋を眺めながら歩いているのですから、まあ怪しそうですね。

湘南新宿ラインの線路を渡るためにいったん大崎方面へと高架橋の下をくぐり、また新幹線の線路の南側へ戻ると、そこは住友不動産の高層マンションになり、新幹線が落ちてきそうな角度で通過して行きました。

同じ高架橋の下側は横須賀線が通っているようです。

 

このあたりから上り坂になり、おしゃれな高層マンションの一角が終わると道を隔ててすぐに密集した住宅街、1970年代とか80年代ごろに開発された住宅地でしょうか、その中を新幹線沿いに歩いてみるとまたすぐに下り坂なので、目黒川右岸の台地の端っこのようです。

 

坂の途中に児童公園があり、そばを新幹線が何本も通って行きます。

一日中でもここで新幹線を見ていたいと思って立ち止まりましたが、公園で遊んでいる子どもたちは誰も新幹線を気に留めていません。まあ、そうですよね。

 

ここからが、品川を出て最初の住宅地の風景のようです。

新幹線の高架橋に沿って住宅地は続き、屋根が途切れたところに通過する新幹線が間近に見えます。

三木通りを越えると、また上り坂になりその手前に暗渠らしい場所があります。

しばらく歩くとまた下り坂になり、湘南新宿ラインの踏切にぶつかりました。

 

わずか1kmほどですが、地図では東海道新幹線の線路と大崎へと東側へ大きく弧を描きながら通る湘南新宿ラインに挟まれた場所です。

こんなに起伏が激しい場所に建つ住宅地のそばを、ぐいとS字に曲がったあとにすぐ通過していたようです。

 

*戸越銀座のまっすぐな谷戸の先だった*

 

武蔵野台地のどの舌状台地の部分なのだろうと気になり、そうだあの先人の記録ならわかるかもしれないと引っ張り出したらやはり答えが見えてきました。

 

三木通りは、あのテレビでよく紹介される長い戸越銀座商店街の続きにあって、なぜ長いかといえばこう書かれています。

戸越銀座商店街が奇妙なのは、碁盤の目のような街路ではなく、商店街の一本の道路だけがきれいな一直線を描いていることである。なぜ、この通りだけなのか。

 その解答が「地形」にある。きれいに東西に伸びた谷を商店街としていたのである。

(「水系と3Dイラストでたどる 東京地形散歩」竹内正浩著、p.102)

 

その延長にある三木通りの北側には、台地の端のような部分があり、それがあの新幹線の見える公園や住宅地だったようです。

 

そして弧を描くように通る湘南新宿ラインがかつて貨物だった頃、この台地の端っこを避けるように通っていたのでしょう。すぐそばに開けたJR東京総合車両センターの広大な敷地は、かつて高台から流れてくるいく筋もの水を受け止めた湿地のような場所だったのかもしれません。

 

最初に訪ねた沢庵和尚の墓がある場所も台地の端のような場所で、最初に東海道本線横須賀線の線路が海側に造られて、その後山手線、そして東海道新幹線が切り通しで通り、和尚さんのお墓はそれに挟まれるように残った場所のようです。

 

そしてS字状のカーブは、舌状台地と舌状台地の端っこを結ぶために斜めになりながら新幹線が通過しているのかもしれません。

 

 

*おまけ*

 

三木通りのあたりで見た川の痕跡(暗渠)も理由がわかりました。

上記の本の図を見ると戸越銀座の谷からの小さな川のようで、西側にある文庫の森のあたりから流れてくる古戸越川と合流し、さらに東側で品川用水と合流して目黒川の新幹線の高架橋そばで合流するようです。

S字カーブのあたりには舌状台地ゆえの豊かだった水の存在もあるようです。

 

 

 

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