「なぜレジ打ちという仕事まで私がするのだろう」ともやもやしているうちに、セルフレジはすでに「社会的失敗」という見方があるらしいことがわかりさもありなんと思いました。
いろいろなコメントを読んでいると、「なぜレジを打つ労働を購入者にさせているのか、その分安くしても良いのでは」という考え方もありました。
「その分安くしても」はちょっと違うような気がしていたら、どの記事に書き込まれたものか記録していなかったのですがこんなコメントを見つけました。
昔スーパーのアルバイトとしてレジ打ちもしていたが、レジ打ちになるために講習を受けてクレジットカードなどの扱いを学び、試験に合格して認定証を受け取らないとできなかった。時給もレジ打ちしない人よりも高額だった。どうしてインチキしないか店員に見張られながら客がひとつずつスキャンしなければならないのか。
私自身はレジの経験はないのですが、まさにお金や商品を扱う最前線ですからさまざまな知識が必要で、アルバイトであってもこうしてきちんと系統だった講習と認定制度があったのかと初めて知りました。
ただバーコードをスキャンするだけではないもっと知識と経験が必要なはずなのに、「誰にでもできる」「同じことの繰り返しである」だから専門性が高くないと思わせられてきた仕事がこの世の中にはたくさんあるのではないかと。
ああ、これがまさにもやもやの正体だったと思いました。
本当は「人手不足」ではなくて、時給を上げると社会保険の支払いが増えて手取りが少なくなるというトラップがあるので、自分の労働価値を低い時給のままにして非正規雇用の枠から出ないようにせざるおえない人たちを確保しておきたいからではないか。
レジを打つ仕事も、この40年ほどを思い返しても機械やシステムが驚異的に変化した時代でしたから、その仕事内容の変化と歴史を実感としてわかる人はとてもすごい経験量と専門性だと思いますね。
ところがその仕事をしてみたいと思っても、一生を賭ける価値があるのかと思いとどまらせてしまう社会の雰囲気がある。
「誰にでもできる」と思わせて。
人が仕事をできる期間というのはたかだか30年とか40年ぐらいだから、その間の社会の変化にも対応しつつ長い期間をかけてみる価値がどの仕事にもあると思えるようになりました。
ところが、まさか「お客さんがスキャンするのを見張る仕事」になってしまったのは、ほんとうに心をくじきそうですね。
このところそのハリボテぶりが明らかになった一部の政治家や経営者の皆さんの専門性の無さぶりに、こういう人たちによって労働価値が貶められてきたのだと思えてきました。
「専門性とは」まとめはこちら。
「仕事とは何か」とあの日(2022年7月8日)から考えたことも合わせてどうぞ。