散歩をする 500 いよいよ行基さんの生地へ

念願の土塔を訪ねることができました。

 

この土塔町の北に泉北高速鉄道がその上を通過した菰池(こもいけ)があります。このため池もまた行基さんが築造したらしいので土塔のあとそちらに向かい、次に周濠のある土師(はぜ)ニサンザイ古墳を回ろうと計画していましたが、通過した時の菰池の大きさにこれは歩ききれないと悟りました。Wikipediaの説明によれば、1980年代に一部を埋め立ててもこの広さですからどれだけ大きいため池だったのでしょう。

 

散歩の出だしからまた距離感の詰めが甘くてひとつ計画を断念し、別のルートで目的の場所へ向かうことにしました。

 

 

*深井清水の水路をたどって家原寺へ*

 

深井駅へ戻り、そこから西北西へと続く細い水路沿いに歩いて行基さんの生家を目指すことにしました。

その名も深井清水町で、地図では入り組んだ街の中を水路が通っています。どんなところでしょう。

 

駅の西側の交通量の多い府道34号を渡り住宅街を北へと歩くと、おそらく水賀池からの用水路が暗渠になって遊歩道として整備された深井花のこみちがありました。

その大きな水路の下を潜るように南東から小さな水路と交差した場所があり、家原大池という大きなため池へと流れる水路です。

「川の下に川、川の上に川」、ため池を結びながらこの地域に過不足なく水を行き渡らせる、どのような歴史があったのでしょう。

 

小さな水路は少し幅が広くなりながら、住宅地を流れていました。途中に「深井清水の旧跡」と小さな石碑が水路のそばに建っていました。両岸の住宅地は右岸側が小高くなったと思うと、今度は左岸の方が高くなり、もともとは起伏のある場所を湧水を集めながら蛇行した小さな水の流れだったのかもしれません。

コンクリート三面ばりの中には清冽な水が流れていました。

 

数百メートルほど水路沿いに歩くと、道路を隔てたところからは「準用河川伊勢路川」になり、左手は崖のような場所があったり、白っぽい土の畑が残っていたりさまざまに景色が変わるうちに、目の前が開けるように平らな場所に出ました。

水路はここから真っ直ぐ家原大池に流れ、右手に見える高台の向こうに目指す家原寺があります。

 

*家原寺(えばらじ)*

 

高台にある小学校の西側の崖下に、家原寺への山門がありました。高台へ登るのかと思ったら、山門のすぐ奥にお寺が見えます。どんな地形なのでしょう。

周囲は家に囲まれているので分かりにくいのですが、手前に池があり東側は斜面になっているので、どうやら谷戸(やと)とか谷津(やつ)のようです。

池の水は湧水でしょうか。

704年、行基さんが生家を寺にした頃は、どんな風景だったのでしょう。

 

ところで、訪ねて初めて「家原寺(えばらじ)」と読むことを知りました。

ほんと、日本語は難しいですね。

 

家原寺(えばらじ)

 飛鳥・奈良時代の高僧行基(668~749)は、この地で生まれ、父の高志才智(こしのさいち)は、百済から渡来した王仁(わに)を祖先とする一族で、母は蜂田首虎身(はちたのおびととらみ)の娘の古爾比売(こにひめ)とされています(『大僧正舎利瓶記』より)。行基は、仏教の民間布教と同時に、灌漑用の溜池を造るなどの社会事業を推し進めました。行基慶雲元年(704)に、母方の実家のあった生誕地に自ら寺院を建立したのが当寺とされています。本尊の文殊菩薩は「知恵の文殊」として、一年を通して数多くの参拝者があり、特に受験生が多く合格祈願に訪れることで有名です。

 行基の一代記を描いた、当寺所蔵の「行基菩薩行状絵伝」は、国の重要文化財に指定されています。また、当時の境内には天文20年(1551)の銘があり、大阪府の指定文化財となっています。

 大左義長法会は、「家原のとんどまつり」として知られ、多くの参拝者が昇運や無病息災を願って訪れます。

(家原寺の案内板より)

 

 

1月中旬、合格祈願の高校生がひっきりなしに訪れていました。

 

行基さんの時代と重なるこのところの世の中の雰囲気でさらに理不尽さに打ちのめされるような年明けでしたが、だからこそまた十数世紀後にも普遍的なことが伝えられていくのだと希望が見えてきました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

行基さんの記事のまとめはこちら