水のあれこれ 374 飛鳥川沿いの水時計の遺跡へ

いつか飛鳥川沿いも歩いてみたいなと地図を眺めていた時に、「水落」という場所を見つけました。何か遺跡があるようで古代の灌漑施設だろうかと想像していたのですが、そのあとに観たブラタモリで水時計を紹介していました。

 

 

飛鳥川沿いを歩く*

 

聖徳太子お誕生所の前の川原寺跡も田んぼに囲まれていて、真っ赤なトラクターが田おこしをしている最中でした。

その横の細い道を山裾沿いに北へと歩いて、飛鳥川を目指しました。

 

鶯が鳴き、道端には春から初夏の野草とのどかな道です。幅20~30センチぐらいの側溝があってきれいな水が流れているのをのんびりながめながら歩いていると、後ろから地元の方の軽自動車が来ました。細い道のギリギリに身を寄せて車が通るのを待っていたら、側溝へと脱輪してしまいました。

私を避けるためだったので申し訳なく、手伝おうと近づいたら、エンジンを思いっきりふかして側溝から抜けて何事もなかったかのように走っていきました。

いやはや、生活の場を歩かれることは、やはり負担になりますよね。

 

飛鳥川の水面が見えてきました。石積みの護岸が美しく、南からゆったりと流れています。

川幅も2~3mだったものが広がり、右岸の高台の水田への用水堰がありました。さっき脱輪した車の方が水面を眺めています。農業用水の管理をされていたのかもしれません。

 

堰からの水路沿いにひろびろとした田んぼを歩きました。振り返ると飛鳥地区の灰色の瓦屋根が輝いていてゆったりと飛鳥川が流れてくる風景に、半世紀どころか飛鳥時代からの風景ではないかと思えてきました。

 

こののどかな水田地帯に「蘇我入鹿首塚」もあるようですが、先を急ぎました。

 

*飛鳥水落遺跡*

 

テレビで見た赤い柵が近づいてきました。石柱がいくつも立っています。

 

史跡 飛鳥水落遺跡

 斉明天皇6年(660年)5月、皇太子中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本で初めて水時計を作って人々に時刻を知らせた、と「日本書記」に書かれています。「日本書紀」はその場所について何も語っていません。1981年その水時計の遺跡が、ここ飛鳥水落遺跡で掘り出されたのです。

 ここでは、精密に、堅固に築いた水時計建物と、建物内の中央で黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置とが見つかりました。水時計建物を中心にして、水を利用したさまざまな施設があることもわかりました。

 当時の日本は、中国の先進文明を積極的にとりいれて、律令制に基づく中央集権的な国家体制を急速にととのえつつありました。中大兄皇子は、中国にならい政治や人々の社会生活を、明確な時刻制によって秩序づけようとしたのです。

 時計装置の製作と運用は、当時の、最新かつ最高の科学技術を結集した国家的な大事業であったことでしょう。その意味において、飛鳥水落遺跡は律令国家確立への記念碑といえるでしょう。

当時の絵が描かれてます。

磯石と地中梁。

堅固で、得意な基礎工事を採用しています。

受水槽や木樋は、基礎工事の途中で埋め込んでいます。

1階には時計装置。

2階には都に時刻を知らせる鐘や太鼓があったでしょう。

水時計は、塀で囲まれた一郭にありました。水時計を管理し、天文、暦、呪いなども担当した役所だったのでしょうか。後方は飛鳥寺

 

遺跡を覗き込んでも、どうやったらここから正確な時を知ることができたのか皆目見当もつきません。

何より、飛鳥川は氾濫しなかったのでしょうか。

 

1981年にこの遺跡が発見された頃は腕時計が日用品になり、さらに時刻を正確に合わせる技術も格段に進みました。

さらに15秒以内の正確性で運行される列車とか百分の1秒を競う時代になり、この半世紀は時計もまた驚異的に変化する時代でした。

 

「政治や人々の社会生活を、明確な時刻制によって秩序づけようとした」

それがこの水時計に始まったそうですが、この装置からはどんな水音が聞こえていたのでしょう。

 

ふと説明板から顔をあげると、山と飛鳥地区の集落と田んぼが目に入り、一瞬いつの時代にいるのか混乱しそうになったのでした。

 

 

 

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