米のあれこれ 94 神奈川県最大の水田地帯

西へ向かう東海道新幹線相模川を渡ると、それほど大きくはなさそうな川を3本渡ってからトンネルへと入ります。

そこまでずっと広がる田んぼが車窓から見えるのですが、地図では新幹線が田んぼを斜めに切って進むので沿線には三角形の田んぼがあります。

その畦道はまるで二等辺三角形のようになるので、線路のそばを歩くときには離れたり近づいたりすることになります。

 

だだっ広い水田地帯のどの道を歩こうかとだいたいの計画は立てたものの、新幹線の線路ぞいを歩くのはそのためにジグザグと曲がったり道が描かれていても実際には歩けない場所もあるのでここからはいきあたりばったり歩くことにしましょう。

 

富士山が見えるので線路の北側の水田地帯を歩くことにしました。

大山(おおやま)が近くに見えます。4月初旬、土手には青々とした草と菜の花、そして青空と美しい色合いです。

ジグザグと新幹線の線路沿いに畦道を歩くと、不思議な場所がありました。

 

渋田川の堤防のそばで畦道が曲がっているのですが、堤防へ行けるわけでもなくただ曲がっています。

その角に立ってしばらく新幹線が通るのを眺めていましたが、こんな時にはなかなか来ないものです。

なんだか怪しい人になりながら待つこと数分、微かなヒューっという音が近づいたと思ったらあっという間に通過していきました。

次回は新幹線の車窓からこの場所を見逃さないようにしたいものです。

 

その角を曲がり新幹線の線路へと戻ると、一部はすでに田んぼに水が入っていて水鏡に青空と新幹線が写りました。

ここからは北側は線路沿いに歩けそうにないので反対側へと出ると、線路のすぐそばに御霊神社がありました。こんな美しい鎮守の森のそばを通過していたのですね。

 

渋田川の堤防の上をしばらく歩いて川の反対側へと渡り、下島地区で新幹線の北側の水田地帯へと入り、しばらく北側を歩いたあとまた線路の下をくぐり南側の地域へと入りました。

水路の水は清冽で、底の砂地にタニシが移動した跡がいく筋も残り小さなタニシがたくさんいました。

水音が大きくなったと思ったら、川と水路が合流する場所で、ふなが群れで上っていく水音でした。

この水はどこから来るのでしょう。

 

時々、上空を自衛隊の航空機が旋回していきます。厚木基地からの訓練機でしょうか。

畦道を自転車に乗った男性が通り過ぎていきました。祖父の後ろ姿に似ています。

静かにまた新幹線が通過していきました。

広い広い田んぼの空間を歩いていると、過去から現在へさまざまな記憶が戻ってくるような感じです。

 

微高地にある豊田小嶺の住宅地が見え緩やかに坂道を上り、豊田本郷駅バス停に到着しました。「駅」とながついていても金目駅と同じく、かつての国鉄とバスの連絡輸送の名残だそうです。

ここから伊勢原行きのバスに乗りました。しばらく水田地帯のへりを走るとぐんぐんと坂道を上り、一段も二段も高い場所にある小田急伊勢原駅に到着して散歩が終わりました。

 

 

相模川右岸の田んぼと相模原右岸幹線用水路*

 

以前歩いた金目川や花水川の支流に水田地帯は広がっているのですが、広大な田んぼですから相模川から取水しているのだろうと思っていました。

ところが実際に歩くと水田と相模川の間は自然堤防の高い場所で隔てられています。

あの田んぼはどうやって管理されているのだろうと気になりました。

 

検索すると、相模原右岸幹線用水路があることがわかりました。

2019年に訪ねた下溝の少し下流に頭首工があり、そこからはるばる送水されているようです。

 

「水利施設等保全高度化事業」「相模川右岸(相模川右岸2期)」という関東農政局の1986年(昭和61)の資料に以下のように書かれていました。

 本地区は、一級河川相模川の右岸中下流域に大きく広がる県下最大の水田地帯であり、これら農地にかんがい用水を供給する幹線用水路は、昭和24年から33年度にかけて特殊県営かんがい排水事業により築造された。

 

ああ、そうだったのか、新幹線の車窓から見ていたのは神奈川県下最大の水田地帯だったのだ。

そして戦後すぐから用水路が整備されて水田になり、そこを新幹線が斜めに通過していくようになったようです。

 

晴れると富士山と大山が見え、歩いた4月初旬は菜の花とスミレと青空がを背景に通過する新幹線が美しく、そしてこの早い時期にすでに田植えの準備が始まっていました。

この地域の水の歳時記はどんな感じでしょうか。

 

 

 

 

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