この数年であちこちの古墳を訪ね歩いているのですが、古墳についての専門知識は全くなくただ周濠の水をながめたいという酔狂な目的です。そして実際に尋ねると、美しい水面だけでなくその地域の農業や治水・利水の歴史も広がるおもしろさにはまっている感じです。
帰宅してから改めてWikipediaや資料を検索して、初めて知ることばかりです。
箸墓古墳もWikipediaの箸墓古墳の説明を読んで、そうなのかと思うことがいくつもありました。
*前方部が撥型に大きく開く*
まず「出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳である」ということでした。
確かに地図を見直すと、森のように見えた部分は前方後円墳の形をしています。
そして周濠の天堤を歩いているときに見えた森が途中で湾曲していたのが前方後円墳の形であり、「前方が撥型に開いている」という意味がWikipeidaの航空写真でわかりました。
1968年(昭和43年)に近藤義郎が、古い段階の前方後円墳は前方部が途中から撥(ばち)型に大きく開くことを指摘し、この墳形を呈する箸墓古墳も古い墳丘であると考えられるようになった。測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より広がっていたことがわかる。
古墳を訪ねたはずなのに、森のそばにある池に錯覚しそうになったのもあながち間違いでなさそうです。
墳丘の全長約280メートル、後円部の高さ約30メートルで自然にできた小山と錯覚するほどの規模、全国各地に墳丘の設計図を共有していると考えられる古墳が点在している点、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点などそれまでの墳墓とは明らかに一線を画している。
(同上、「意義」)(強調は引用者による)
*あの水はどこから来たのか*
なぜこんなに取り憑かれたように水を訪ね歩き、とうとう周濠まで訪ねるようになった理由は、あの水はどこから来たのか、水源はどこなのかを知りたいというあたりです。
箸墓古墳の大池の水はどこから来たのでしょう。実際にその地域を歩いたら何かヒントがあるかもしれないと思いましたが、近くには小さな名もない川があるだけでした。
Macのマップでは名前がないその小さな川ですが、Wikipediaの纒向遺跡を読んで名前がわかりました。
地勢は、東が高く、西が低く、巻向山の北麓を水源とする巻向川の標高60~90mの巻向川扇状地上に遺跡が形成されている。縄文時代に土石流の流れ込みがあり被害があった事が確認されている。
それにしてもすごいですね、縄文時代の土石流までわかるとは。
現在も古墳の周濠以外に3つのため池がある巻向川ですが、そばを歩くとのどかな小川の趣です。
ところが古代から重要な水源だったようです。
・矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本あり、「北溝」「南溝」と称される。
▪️南溝:箸墓古墳の突出部先端付近の巻向川から北西方向の現巻向小学校方向に延びる。水源は箸墓古墳周濠。濠の背後に国津神社があり、現在の巻向川に到達している。
▪️北溝:北東の旧穴師川から南西方向に延びる。水源は旧巻向川である。
両溝の合流地点は纏向小学校グラウンドの中にあり、推定2.600mにおよぶ。これは大和川と通じており、遠く外海へと結ばれている。
箸墓古墳をはさむように巨大水路があったのでしょうか。たしかに現在の地図でも纏向小学校のグラウンドの近くに水路が描かれています。
では、箸墓古墳の周濠の水はどこからきたのでしょうか、湧水でしょうかそれとも巻向川でしょうか。
周囲の水田を潤すために、ここにも現在は吉野川分水が利用されているのでしょうか。
答えはなかなか見つからないままです。
ああ、もう一度巻向川とかつての巨大水路跡を訪ねたくなりました。困りましたね。
*おまけ*
Wikipediaの箸墓古墳の説明に「ため池百選箸中大池」と紹介されていました。
農林水産省によるため池百選があるようです。またまた遠出への誘惑が増えそうです。
「水のあれこれ」まとめはこちら。
周濠についてのまとめはこちら。