観察する

前回の記事でリンクしたネジバナの出典・脚注に、「ネジバナのねじれに関する研究」という論文があります。


なんと中学生の研究です。


私がネジバナを初めて見たときに世紀の大発見ではないかと舞い上がったとの対称的に、冷静にネジバナを観察し、その捻じれ方についての推論を研究しています。


「研究のねらい」として以下の3点があげられています。

1.ネジバナの巻く向きについて、左右同じ程度にあるのか、また、場所や環境によって、左向き・右向きに差があるか調べる。
2.ネジバナの巻く回数について、どの程度か、また、場所や環境によって巻き数にちがいがあるか調べる。
3.1,2やネジバナの形態観察等を通して、なぜ、どのようにしてネジバナがねじれるのかを調べる。

おおよそ600本のネジバナを観察したようです。


ネジバナの「巻く向き、何回巻くか」については、「環境によるものであることも想像させるが、しかし観察地点毎にある一定傾向になるわけではなく、その要因がわからない」(p.160)としています。
きっと、私なら600本も観察すれば「こうわかった!」と結論づけたくなりそうです。


さらにネジバナがどうやってねじれていくか、二つの仮定をたてて実証を試みています。

ネジバナの茎をルーペ等でよく観察すると、やはり茎がねじれているのが観察される。やはり茎がねじれて、ネジバナになっているんだと考えた。

私なら、このルーペで観察した結果をもって「ねじれの要因としてわかった」と結論づけたくなります。


ところが彼女は、インクを染み込ませてさらに観察をし、以下のように書いています。

しかし、さまざまなタイプを観察すると、そうとばかりはいえないことがわかってきた。

これだけの観察をしても結論には到達しないばかりでなく、研究の中で足りなかった視点などを「おわりに」で書かれています。

ねじれの要因は環境要因と考えた場合、太陽の運行、雨量など様々な条件が絡み、ネジバナの茎のねじれや伸びの量など、まだ追求を続ける必要がある。

最初、花のつき方と茎のねじれと花の巻き方についての関係がわからず観察していた。早めにこのことに気づいて、データーを取り、整理すればよかった。


夏休みになると植物の観察日記の宿題がありましたが、めんどくさくて嫌いでした。
今なら、じっくり観察するそういう宿題も楽しいと感じるかもしれません。


でもきっと、私なら結論を急いでしまいそうです。


<「拙速にならない」、科学的な思考の大切さ>


ニセ科学の議論の中で時々菊池先生が、「拙速に答えを求めない」ことを戒められていました。


科学というと理系あるいは科学者の領域のようで、日常の生活とは無縁と感じる方が大半ではないかと思います。


私自身、科学的な手法を基本とした医療の中で働いてきても科学的な思考とは程遠い世界で生きてきたと思います。


でも、誰もが「観察」をしながら生きているはずです。
天気の変化を観察したり、あるいは相手の表情や行動を観察しています。


その観察から自分の求めている答えに結論づけやすいものです。
思い込みや確証バイアスです。


拙速に結論を求めることで、このあたりから書いたように、効果がわからないのに「効果がある」と信じて広まることになります。


この中学生の研究を読んで、あの夏休みの課題研究で私は大事なことを学ばずにきてしまったのだと、人生を取り返したい気持ちになりました。





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