最近、仕事で接するお母さんたちの顔と名前をますます覚えなくなってきました。
数日前に退院した方の名前と顔さえ思い出せなくなり、短期の記憶力が衰えて来たのかと落ち込みます。
「忘れた」ことを覚えているので、まだ大丈夫だとは思いますが。
もともと人の名前とか、人間関係とかを覚えるのは苦手でした。
誰と誰がどういう関係だったか組み立てていきながら読む小説は苦手で、どちらかというとノンフィクションのほうが好きです。
東南アジアで暮らしてついていけなかったことのひとつが、遠い親戚や友人・知人のネットワークの広さでした。
たとえば現地の友人と一緒に街を歩いていると、誰かに声をかけられてしばらく立ち話をします。
そのあと「あの人は誰?」と尋ねると、「○○のおばさんのお姉さんが住んでいる近所の誰々さん」など彼女が一度しか会ったことがないような人でも、その人が誰だか記憶されているのです。
私にとっては「それって、ただすれ違っただけということでは?」という程度の関係でも、彼女たちの人間関係図にはインプットされているのに驚きました。
仏教ではないのですが、まさに「袖振り合うも多生の縁」ですね。
<プールではけっこう人を覚えられる>
加齢による記憶力低下もあるかもしれませんが、「あれ?けっこう人を記憶する能力があるかもしれない」と最近気づいたことがあります。
それは、プールで泳いでいる人なら覚えているのです。
もちろん、水の中だけです。服を着て外に出たらほとんどわからなくなりますが。
水着やキャップなどで覚えているのではなく、泳ぎ方で覚えているのです。
だいたい1〜2回ぐらい一緒の時間帯で泳ぐと、その人の泳ぎ方の特徴やスピードなどがわかって、お互いに邪魔にならないようなペースを意識できるようになります。
たとえ黒い水着、黒いキャップで体型もそれほど目立つ事はなくても、だいたい「あ、あの人だ」とわかるのです。
案外、私の人を覚える記憶力も捨てたもんじゃないと、この年になって自信になってきました。
<何を認識しているのか>
なぜ泳いでいるときは人を記憶できるのに、日々仕事で接するお母さんたちのことは記憶に残らないかと考えると、お母さんと赤ちゃんの組み合わせをパターン化して認識するようになったのかもしれないと思っています。
誰々さんというよりも、「2日目の初産婦さんで、まだ新生児の抱っこにも不安や緊張が強い」「3日目の経産婦さん、退院後のサポートがなくて不安が大きい」「3日目の経産婦さんの赤ちゃん、体重増加期に入ってよくぐずる」など、ぱっとその母子に介入したほうがよい点が先に見えているという感じでしょうか。
あるいは、「この母子に私がここまでケアしておけば、次のスタッフが関わりやすいだろう」とか「退院後に困らないかもしれない」といった私の中でパターン化された見通しで対応しているという感じかもしれません。
一見、個別性はないようですが、微妙に個別性も取り入れながら反応しているのだと思います。
時に、このパターン化されたケア、言換えれば自分の中である程度標準化されたケアでは対応しきれない場合があります。
家族関係が複雑であるとか、出産後の経過が思わしくないとか。
そういう方は、やはり記憶に残ります。
仕事上では個人を認識しているというよりも、その状況を認識するほうに比重が傾いたのかもしれません。
記憶力の低下というよりも、ちょっと達人(Expart)に近づいたのかもしれないと思って自分を慰めることにしましょうか。
「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら。