記憶についてのあれこれ 66 <目的を持って体を動かすことを記憶する>

朝目が覚めてから寝るまで、いえ寝ている間も、私たちはなんとさまざまな複雑な体の動きを行っていることでしょうか。
意識的に、そして無意識に体を動かし、何らかの目的を持った行動へとつながっていきます。


それは指先のちょっとした傷だけでも、シャワーに入ったり食事の準備をするためのスムーズな動きができなくなるほど、体の各パーツが巧妙に連動しているのですが、日頃は気にすることもありません。


数年前に、母が心臓手術の合併症による空気塞栓で半身麻痺になりました。
70代後半でしたから、自力で体を動かせなくなったことで、ICUにいた数日間だけでも筋力が低下してしまい、心臓の手術は成功したけれどこのまま寝たきりになるのではないかと心配しました。


空気塞栓であったことも幸いし、徐々に麻痺肢の動きが戻ってきたことと、母も積極的にリハビリに取り組んだこともあって、1ヶ月後にリハビリ病院へ転院する頃には車いすへ移るのに少し介助をする程度にまで回復しました。


70代後半で考えてもいなかった手術後の半身麻痺に精神的に相当落ち込んだと思うのですが、なぜかこの時に母は「私の人生はなんだったのか」と嘆くこともなく、前向きにリハビリをしていました。
そして、理学療法士さんのアドバイスやリハビリの内容を記録して。


完全な麻痺ではなかったので、今は短い距離ならば杖も使わずに歩けるようになりました。


ただ、発症当初の母の様子を見て、「それまで自分の意志で動けていた体を動かせない」ことに慣れることも、動けない体を別の動きでカバーしながら動くという、新しい複雑な動きを体に覚えこませることは大変そうなことだと思いました。


<父が再び立ち上がった>


半身麻痺から新たに日常の体の動きを覚えるためには、「記憶する」という段階が必要です。


昨年末に2度目の脳梗塞になり、右脚が完全に麻痺し右手も筋力が落ちた父にとって、母のようなリハビリと回復はあるのだろうかと最初はあまり期待していませんでした。
最初の脳梗塞は比較的軽い麻痺でしたから、父も自主トレーニングで手の動きを取り戻していました。
それに比べると、今度は寝返りもうてないほどでしたから。


ところが、車いすに移るところまで介助は必要ですが、いつのまにか車いすを器用に運転するようになりましたし、リハビリを見学させてもらい「認知症の人でも動いてみたい、歩いてみたいという気持ちがあれば、リハビリにつながる」と聞き希望を持てるようになりました。


ただそこから父のやる気は低迷し、持ち前の頑固さもあって理学療法士さんからもさじを投げられる寸前でした。


先日、ちょうど面会が父のリハビリの時間だったので、久しぶりに見学させてもらいました。


何と、父が体を支えてもらいながらも車いすから立ち上がり、平行棒につかまって20秒ほど立つことができていました。


父の体はどうやって右半身麻痺をカバーしながら立ち上がる方法を記憶していったのだろうと、静かな感動がありました。
目的を持たないかのようにバタンバタンと動いていたのに、ある日突然寝返りをうった乳児に感動するかのようです。


繰り返し繰り返し、頑固な父につきあってくださった理学療法士さんの忍耐のおかげでもあり、感謝です。



父が入院している介護療養病床へ面会に通い始めて3ヶ月以上がすぎましたが、最初の頃にはまだ院内を自由に歩いていたのに、最近は車いすが必要になった方々もいらっしゃいます。
でも、リハビリでは一生懸命に訓練を受けていました。


記憶はだんだんと失われていっても、新たに何かを記憶している部分があるのではないかと、父やその方々を見ると思います。


そしてその「動きたい」という気持ちが、失われていく記憶や認知を補っているのかもしれないと。






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