産後ケアとは何か 29 <産後ケアに足りないもの「重荷としてのケア」>

助産師に感じる違和感に書いたように、助産師を目指す人の多くが、家族に囲まれて喜びに満ちた明るい出産場面を思い描いているのではないかと感じています。


もちろん、その教育過程でうまくいくお産ばかりではないリアリティを学ぶのですが、助産師の教育自体が「正常なお産は助産師だけで」という正常性バイアスが強い世界ですから、出産も赤ちゃんの世話も「うまくいく」ことが前提の方法論が跋扈するのかもしれません。


さらに「産後ケア」も「こうすれば母乳育児がうまくいく」方法論が、ケアの中心になっているのかもしれません。


でも現実には、挫折感や焦燥感などさまざまな感情が入り乱れたお母さんと一人一人違う成長過程の新生児を相手にしています。


今は何も手を出せることがなくて、ただ見通しを伝え、じっと見守ることしかできないことがたくさんあります。
それが現実的なケアなのではないでしょうか。


<「重荷としてのケア」>


そんなことが漠然としていながらも見えてきたのは、「ケア」の語源と意味ー「ケアの社会学」よりで引用した部分を読んだ時からです。

英語圏の「ケアcare」の語源は、ラテン語のcuraに由来し、「心配、苦労、不安」の意味と、「思いやり、献身」のふたつの意味で使われていた。哲学者の森村修は「ケアの語源のcura」には、「重荷としてのケア」と「気遣いとしてのケア」という対立する意味があったと指摘する。ケアが前者の消極的な意味を持っていることは、記憶しておいた方がよい。


「心配、苦労、不安」を言い替えれば「重荷としてのケア」で、「思いやり、献身」が「気遣いとしてのケア」になるという感じでしょうか。


それが「対立」する意味になるというのはどういうことでしょうか?


おそらく、日本の看護ケアの世界でも気遣いとか思いやり、献身という部分は好まれて来たのではないかと思います。
看護技術もそういう視点で発展してきたように。
あるいは産科の「授乳指導」や「保健指導」もそうですが、こちら側から対象への働きかけの部分とも言えるかもしれません。



ところが、「心配、苦労、不安」というのは基本的にはケアの対象である相手側が自分で納得し、変化していかなければいけない部分です。
そこに直接働きかけられるケアというのは少なくて、相手の変化をじっと待つしかないことが多いものです。


でも往々にして、ケアする側は「何もしないことに耐えられない」ので、あれこれと献身的に振る舞おうとしがちです。


ところが思うように相手が変化しないと、自分のケアがうまくいかなかったと感じやすい落とし穴があるのかもしれません。


「重荷としてのケア」
そのあたりがもう少し意識されれば、万能感にあふれた母親をイメージした帝王切開直後や出産直後からのスパルタな指導は見直せるのではないかと思います。




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