つじつまのあれこれ 12 <現実と理想(好み)の話でつじつまがあわなくなる>

先日来の「子連れ出勤」の件をまだ、考えています。
ネット上で読むことができるご意見や感情の変化をみていると、おそらく最初は大きく感情を動かされ共鳴した人たちの中にも、何かつじつまの合わなさを感じて気持ちのやり場に困っている方々がいらっしゃるのかもしれないという印象を受けています。


自身の問題や状況とは違うのけれど、あるいは自分の気持ちや言って欲しいこととは多少方向性はちがうけれど、子育てのさまざまな問題を声にできる機会として今回の件を利用している方々も多いのかもしれません。


なぜ、私は今回の件がとても気になるのか。
たぶん、私自身の失敗というか反省がふつふつと甦ってくるからなのだということも、少し見えてきました。


振り上げた拳はそっと降ろしておいたほうが、つじつまが合わなくなることに片棒を担がなくてもすむよ。
今日はそんな老婆心っぽい話です。


<自然なお産に傾倒した反省>


私が助産師になった1980年代終わりごろには、世界中で「自然なお産」「お産を助産師に」という風が強くなっていました。
「midwife=女性とともにいる助産婦」(当時は助産婦が正式な名称)というプロパガンダ的なイメージに、心を昂らせていました。


ただ、こちらの記事の「1990年代、できるだけ傷の少ないお産を」に書いたように、私が求めていたのは決して「医師のいないところで助産師だけで分娩介助する」ことではなく、会陰裂傷が少ないお産にするために技術を磨きたい、そのために産科の先生に会陰切開のタイミングをちょっと遅らせて欲しいという、今考えれば単純なことでした。


数年ぐらいで、「傷のできない分娩介助」の目的は達成できたのですが、それは当時は20代初産がほとんどであったこととが主な理由であったのだろうと思います。
その後は、会陰裂傷を作らないことにこだわりすぎれば怖いことがあることもわかりましたし、出産の年代層が急激に変化したので、自分の中のこだわりはすっかりなくなりました。


「出産時に傷があると痛そうでかわいそう。だから傷のないお産の介助を」という感情移入から、「適切なタイミングで会陰切開をしたほうが、母児共によりよい状態になる」ことと、「会陰切開をしないで欲しいと思っている産婦さんばかりではない。むしろ裂けるなら切開をと思っている方もいる」という、当たり前の結論に行きつくまで20年ほど必要でした。


強く感情で共鳴した信念を違う視点で見直せるようになるには、自分の気持ちの整理が必要になるので、思いのほか時間がかかるものです。
ずいぶん遠回りをしてしまったなと、思っています。


<世の中が求めているわけではない方向が広がる>


10年やってわからなかった怖さを20年やってわかるのがお産ということを実感するよりも前から、「自然なお産運動」への共感が消えていったのですが、反対に、助産師の世界にはつじつまの合わないことが増えました。


自然療法や「お手当て」のたぐい妄想を好んで広げ、院内助産とかアドバンス助産師といった臨床の助産師の現実の問題には何の役にも立たない制度を作りました。


日々接しているお母さん達どころか、助産師でさえ「え?そんな動きがあるの?」と関心がないような方向へ変化する原動力はどこから出てくるのでしょうか?


今回の件でも、いくつかインタビュー記事や「子連れ出勤の是非」のような記事が次々とありましたが、そのどれもが「子育て世代に寛容な社会を」という自分たちの好む正しさに利用している印象を受けました。
職場に子どもを連れて行きたい人もいれば、そんなことを求めてはいない人もいることでしょう。
話題性を利用したことで、この議員さんの言動のつじつまの合わなさを、マスメディアが「寛容」の問題にすり替えてしまったのだと感じました。
助産師や出産の現実の問題を、編集する側の好みに変化させたあの力の強さと同じだと感じました。


私も散々、正義感にあふれ先見の明があるような文章に感動し、そのつじつまの合わなさに気づけなかったのでした。
そして周囲の同僚を、「無関心であまり考えていない人」とちょっと心の中で見下していました。


今思えば、そういう運動に影響を受けなかった同僚たちのほうが、より現実的だったのだと思います。


今回の件でも、ネット上では結構な話題になっているかのような錯覚に陥るのですが、実際には私の周囲でも関心を持っている人はほとんどいませんでした。
今は、わかります。
決して社会の問題に無関心なのではなく、現実の問題がどうか振り分けて考えられているからだと。
皆、病児保育や延長保育などをうまく使って、家庭も仕事もなんとか綱渡り状態で続けていますからね。


つじつまの合わなさを見過ごしていると、大きな溝を作ってしまうのではないかと気になって、なんだかずるずると自分の思いを整理するために書いています。
「そんなことは求めていなかったのに」ということにならなければいいのですけれど。





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