運動のあれこれ 16 <「正義の闘い」は誰のため?>

ドーピングあるいはドーピング問題って何だろうと検索していたら、「リオ五輪でドーピングに目を光らせるスポーツドクターたちの熱い闘い!」(HEALTH PRESS、2016年8月12日)という記事がありました。
その2ページ目にはこんなことが書かれています。

ドーピングの手口が巧妙化!


 今年、WADAは、ロシアが国ぐるみでドーピング違反を振替していた事実を暴露し、世界は驚かされた(ロシアのドーピングは止まらない!? 巧妙に進化する手法と犯罪組織の介在)。
 隠蔽工作は、例えば、大量の水を飲み禁止物質を薄める、検査前に他人の尿を尿道から膀胱に注入する、他人の尿を提出する、尿をすり替える、きれいな尿が入った人工ペニスを装着するなど、検査を巧みに欺く行為が後を絶たない。WADAが対抗手段として、抜き打ち検査を強化しているのも致し方ない。
 ドーピング検査法も日進月歩で進化している。近い将来、遺伝子操作によって筋肉を増強する遺伝子ドーピング技術が導入されるかもしれない。ドーピング検査が高度化すればするほど、選手の負担増は避けられなくなるだろう。
 不正なアンチ・ドーピングに挑むJOC、WADA、 JADAの終わりなき正義の闘い、選手生活を奪うアンチ・ドーピングに目を光らせるスポーツドクターの信念の闘い、華やかな競技の裏舞台で、スポーツの良心を守ろうとする人たちの情熱の炎が聖火のように赤々と燃え立っている
 4年後の東京五輪。スポーツドクターとスポーツファーマシストの地道な活動、それが日本人アスリートたちの健康と記録を育んでくれるに違いない。


赤字強調した箇所は、ちょっと読むのも恥ずかしい文章だなあと思いつつ、このあたりがここ1週間ほど私がモヤモヤしていた正体かもしれないと感じたのでした。


そう、ドーピング問題は、アンチ・ドーピングという正義と信念の運動(movement)が核にあるのだろうなと。
一見、薬物とか科学的な話ではあるのですが。


いえ、実際に悪質なドーピングに巻き込まれないようにと活動されている方たちの大半は、もっと淡々としたものではないかとイメージしているのですが。



<「どこを切っても金太郎」を感じさせる世界>


「運動のあれこれ」はまとめに書いたように、私の市民運動との関わりの失敗を書き綴る意味での「運動(movement)」なのですが、ドーピングの内容を入れたのはスポーツの意味の運動と掛け合わせたと思われる方もいらっしゃるかもしれません。


ところが、「アンチ・ドーピング」を検索していくうちに、もしかしてこれも強力な市民運動が国際社会まで動かした流れがあるのではないかと、とても気になってきました。
そう、現在の周産期看護があの70年代以降の「調整乳反対キャンペーンと母乳哺育推進運動」に翻弄され続けているのに似た構造があるのではないかと。
あくまでも印象ですが。


まずドーピングで検索していくと、Wikipediaドーピングの歴史に書かれているような古代から1980年代ぐらいまでの話が、どこを切っても金太郎のように使われています。
いくら、検査方法がない時代とは言っても、死者が出るほどの興奮剤や覚醒剤をドーピングとして使用する前に、その選手の言動や健康状態も怪しまれるのではないかと思うのですが、そういう時代もあったのですね。


では最近のドーピングについては、何をどれくらい使ったことで結果に結びついたのかをどうやって判定したのか、というあたりが最も知りたいところなのですが、なかなかそういう情報には素人の検索では出会いませんでした。


サプリメントに混入されて尿検査で出た成分が、その選手のパフォーマンスにどれくらい効果をもたらしたと証明されたのか。
そのあたりをニュースとして知りたいところ。
それほど効果があるのなら副作用もまた大きいのではないか、そちらの方が選手や社会への啓蒙として大事な情報だと思いますね。
キスの前に飲んだ風邪薬のことさえ気にしなければ選手生命を絶つ可能性もあるのですから、運動選手に接するには慎重にというか神経質にならなければならないほど、身の回りにある何かが劇的な運動能力につながるという方が、そこまでしなくてもという怪しい話のように感じてしまいます。


ところが、世界アンチ・ドーピング機関といった「独立した国際的機関」の名称があると、一気に信頼性が出て、そうしなければならないという掟が世界中に浸透していくのかもしれません。


なぜこんな素人の妄想を書くかというと、1970年代頃からの「母乳をあげたい運動」が、いつの間にか「母乳をあげるべき」運動になり、それがWHO/UNICEFまでも動かして災害時に哺乳瓶やミルクを支援することまで監視されるようになった経過と、何かにているように感じるからです。
国際機関というだけで、正しいかのように信じ込むのが社会。その後ろにある過激なほどの正義と信念の闘いに対しては、「正しく善い話」がゆえに批判しにくいという構造が。


「アンチ・ドーピング」もおそらくどこか市民運動から盛り上がり国際社会を動かし、正義の闘いが選手を監視するまでになった。
あながち見当違いでもないような気がするのですが、肝心のそのアンチ・ドーピングの近代の歴史を見つけられずにいます。


選手を守るはずのアンチ・ドーピングが、選手の人生を監視することにすり替わっているのであれば、正義感ほどやっかいなものはないですね。



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