行間を読む 73 <「ドーピングの哲学  タブー視からの脱却」>

ドーピング陽性って何だろう、ドーピングの歴史はどうなのだろうと何か参考になる本がないかと思い、こんな時には書店へGO!の私ですが、すぐに本との偶然の出会いがありました。

「ドーピングの哲学 タブー視からの脱却」
ジャン=ノエル・ミサ氏、パスカル・ヌーヴェル氏編、橋本一径氏訳、新曜社
2017年10月31日


昨年出版されたばかりですが、「序」を読むと、2010年にフランスのカンギルムセンターで行われたドーピングをテーマにしたシンポジウムの内容をまとめたもののようです。


欧米のこうした訳本は、タイトルに「哲学」とか「経済学」と使われていても、時にあるイデオロギーを扇情的に推している本だったりするので、少し警戒しながら手に取りましたが、本の帯の部分を読むだけで信頼に値する印象を受けました。
帯の前面ににはこう書かれています。

ドーピングは悪なのか?
「スポーツ精神」がその根拠とされるが、ドーピングは競争・向上をめざす近代スポーツが生み出した必然ではないのか。ドーピング撲滅運動の問題性を指摘し、スポーツと社会のあり方を根底から問いなおす、関係者必読の書。日本の現状に合わせた訳者解説を付す。


ああ、やはりドーピング問題というのは、運動の問題でもあり、そういう視点からの批判が世界ではちゃんとあったのだと安堵しました。


帯の裏は以下の通り。

ドーピングをめぐる素朴な疑問


・スポーツは体にいいのか。
・スポーツはフェアなのか。
・ドーピングは健康に悪いのか。
・トレーニングは「スポーツ精神」に反するとみなされる時代があったが、トレーニングとドーピングはどこが違うのか。
・なぜ高地トレーニングは認めて、同じ効果の薬物摂取はだめなのか。
・ドーピングは実際に効果があるのか。
サプリメントや栄養剤と禁止薬物はどう違うのか。
・「ドーピング的振舞い」が日常化する社会で、なぜスポーツ選手だけが例外なのか。
・ドーピングを認めたらオリンピックはどうなる?
・ドーピングはなぜなくならないのか。


これらの考察を通して、反ドーピング運動の問題点を指摘し、現実的代替案を提示する。

本当にそうだなと思ったのは、特に日本では「24時間働くための栄養ドリンク剤」や「仕事や家事を休まなくてすむために早く風邪薬を飲もう」が巷に溢れているし、試験の前には最高のパフォーマンスのためにカフェイン入りドリンクを飲んだり、中高年だって「納豆を食べれば血液サラサラ」「〇〇で膝の痛みが取れる」「これを使えば何歳若返る」とか、人生のパフォーマンス向上のために色々なものを取り込んでいますね。


これが言うなれば、「ドーピング的振舞い」。
それどころか、競争により精神を病んで薬剤も必要になっているのが現代社会だと指摘してきます。


ところが、なぜスポーツ選手だけがそれを厳しく禁じられるのか。
あるいは、赤血球を増やすためのエリスロポエチンの使用はだめでも、高地トレーニングや低酸素テントなどは認められているのか、そのあたりの境界線も曖昧なのにWADA(世界反ドーピング機構)はこうした問題に対して「2006年に玉虫色の答申を出した」と本文では批判されていますが、まさに私が疑問に思っていたところでした。


<現実の葛藤に、「白」という答えを掲げる運動の弊害>


1998年のツールドフランスのフェステイナ事件以降、「反ドーピング熱の再燃によって世界反ドーピング機関(WADA)が設立された」そうです。


「序章」では、「寄稿者の大半が向かおうとしているのは、反ドーピング政策に対する非常に根本的な批判である。彼らはその原理に対して異議を唱えているのだ」として、以下の点が書かれています。

すなわちその根拠なき道徳イデオロギーや、必要悪を取り除こうとする非現実的な意志、正当性のないパターナリズム、懲罰的側面や諸行為の犯罪視についてである。彼らはその方法にも異議を唱えている。すなわち犯罪に対してなら法的にされるような、故意であるかどうかの問いが、ドーピングに対しては拒絶されていることや、無罪推定の放棄、私生活に対する度を越した統制、選手の長期にわたる検査、テストの不確実性が問いかける問題、誤った陰性を生み出す傾向、規則が絶えず恣意的に変化することなどである。
彼らは反ドーピング政策の有効性に対して異議を唱えている。この政策が守ろうとしている選手の健康が、監視の外で秘密裏になされる実践のせいで、むしろ損なわれていることを考えれば、きわめて非生産的な政策である。(p.22)


また、第2章では、「世界ドーピング機関(WADA)が発展させたドーピング撲滅運動のイデオロギーは、薬物戦争を下支えするそれと似ている」として、以下のように書かれています。

WADAのメンバーたちは、ドーピング撲滅運動を善と悪の戦いだと見なすことが非常に多く、この戦いの正当性や、考えられる悪影響について自問しようとすらしない。ラディカルな反ドーピング政策の倫理的・科学的な基盤について、広い議論が湧き上がることを促す必要があり、またこの政策がスポーツ選手たちの生活にどのような影響を及ぼすのか考えなければならない。(p.53)

いつ来るかわからないドーピング検査、検査員の前での屈辱的な尿検査、居場所の通知が遅れただけで違反に問われるといった、まるで独裁政権下の恐怖政治の数々の歴史を想起させるような方法が取られ、次々と「陽性」が生み出されていく。
最近では「偽証罪」まで問われて、刑事罰の対象となる国もあるようです。
あな、恐ろしや。


「正義」や「白」を求める運動には、たとえそれが誰かの人権を踏みにじることがあっても、正しいと思い込みやすいのだろうと思います。
だからなかなか当事者やその周辺からは、批判の声が上がらない。


では、ドーピングについてどう考えたら良いのか。

寄稿者たちが提案しているのは、すでに述べたように、一方ではドーピングを事実として、スポーツの発展のために必要な所与として認めることである。他方では、選手の健康にとってのリスクだけに焦点を合わせて、これらの行為を規制することである。(p.22)

本当に、善意や正義感で始まった運動は簡単なことを難しくすることがしばしばあるので厄介ですね。



そして逆説的のようですが、どの分野でも、現実問題の解決方法というのは簡単に白黒つけられるものではなく葛藤の連続でもあります。

向上のためのバイオテクノロジーとスポーツの出会いは、倫理学や哲学、スポーツ政策にかかわる。解決の容易でない問題を提起する。ドーピングを禁止・弾圧する政策が、可能な唯一の戦略ではないことは確かだ。今日のWADAの活動を下支えするのとは別の倫理的(そして政治的)な立場も存在するのである。
他の解決方法が実地で検証されるためには、今日の反ドーピング政策の有効性と欠如と失敗の公算とが確かめられるのを待つ他ないだろう。自由主義的な倫理を標榜する一部の者は、スポーツにおいて向上テクノロジーを条件づきで合法化することを、すでに主張している。合法化にも副作用があるとはいえ、彼らの議論は真面目に取り上げるに値するものだ。反ドーピング政策の帰結についてや、スポーツにおいて向上テクノロジーを頼りにすることの正当性、あるいはアスリートたちができる限り最良の条件で自らの職業に従事することを可能にするためにどのようなスポーツ政策を擁護すべきかについて、広範な社会的議論が忌憚なく開始されるべきである。(p.48)


まさに拙速に結論を求めず、理想と現実のあいだで折り合いをつけるという話ですね。


ドーピング検査に疑問を持った選手の方々は、まず、自分の身を守るためにも読むことをお勧めしたい本です。




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