イメージのあれこれ 25  新田

昨年から今年にかけて、今までのイメージからもう少し具体的に理解できてきた言葉があります。

「新田」です。

 

地図で、青い用水路がまっすぐに張り巡らされて碁盤の目のように道が通っているところを拡大すると、だいたい必ずといってよいほど、「〇〇新田」という地名が見つかります。

用水路をたどると、結構な確率で新川があり、排水機場がみつかります。

それを見つけると、散歩コースの候補地になっていますが、実際に訪ねてみると見渡す限り住宅地に変わっているところもあります。

 

「新田」とか「新田開発」という言葉はいつの間にか知っていたのですが、何を指しているのだろうと改めて考えてみたところ、ほとんど私には理解できていない言葉だったのでした。

 

まずはWikipediaで検索してみると、新田という項があり、定義が書かれています。

新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾してできた農地のことである。また、その地名。 

水田だけでなく畑の開墾も、新田に含まれるようです。

 

「江戸期の人口増加と食料増産」の説明を読むと、これまで散歩をしてきた地域のこととつながっていくようです。利根川東遷事業のような川の付け替えとか、玉川上水から通水した都内での地域ぐるみで水を盗まずを得なかった状況とか。

 

どうやら江戸時代以降に「新田」という言葉が使われ始めたらしいということが見えてきました。

ただ、もう少し詳しい説明を期待していました。

誰が新田を開墾したのか、その当時の状況はどんなだったのか、そのあたりです。

 

倉敷の干拓の歴史資料を探しても、干拓事業を始めた人や会社の名前は見つけられるのですが、そこに入植した人たちは誰なのか、どういう人たちなのかはなかなか見つけられません。

どうやら、私の曽祖父が倉敷の新田へと移ったらしいのですが、なぜなのかどういう状況だったのかを知りたくても、すでに母の代ではわからないようです。

 

 *「東京新田」*

 

昨年11月に印旛沼へいく時に立ち寄った国立歴史民俗博物館の書籍コーナーで、真っ先に目に入った本がありました。

「「東京新田」を歩く 東京窮民の下総開墾」

青木更吉氏、崙書房出版、2011年

 

パラパラとめくったところ、目に入ってきたのが以下の箇所です。

広辞苑』によれば新田とは、「新たに開墾した田地。特に江戸時代のものをいい、中世以前は墾田という」としている。それなら、明治以降の新田は何と呼ぶか、それは新田ではなく開墾や開拓だろう。 これはほぼ定説に近いようだが、私は明治維新の下総牧跡の開墾でもあえて東京新田と呼びたい。

 

なるほど、福田古新田も江戸時代でした。

 

この本では、江戸時代に印西、野田、流山付近で活発におこなわれた新田開発も、江戸後期に入ると進まなくなり、そして明治2年、再び下総の開墾が活発になったことが書かれています。

 

では、なぜ「東京新田」なのかというと、その開墾地が東京府直轄地で東京在住の資産家たちの開墾会社による、東京の窮民授産が目的であったという点が描かれていました。

明治2年3月の「下総牧々 開墾大意」が出て、6月には「窮民授産開墾規制」が発表された。それらによると、窮民の3年間の生活は保障するというもの。衣食住そのほかの諸経費は会社で負担し、後年その費用を償還すれば3町歩までの地主になれるというもの。

 

ただ、窮民救済という理想を掲げた構想と、東京の治安のための棄民政策のあたりの現実、真面目に鍬一本で開墾する人もあれば、生活を保障されたことで昼間から酒に溺れてしまう人もありといった話に、私の「新田」 のイメージがまた変わったのでした。

 

「新田」という言葉になぜ私が惹かれているのか、何を知りたいのか。

それさえもまだ霞の中であることを、この本で突きつけられた感じです。

 

 

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