相浦に到着し、ここからは松浦鉄道西九州線でただひたすら海岸線を眺める散歩になります。
相浦駅は港を一望するように一段高い場所にありました。
そこから先ほど下車したバスターミナルの場所をみると、もともとは海岸の岩肌だった部分を削った場所であることがよくわかりました。こうして少しでも山を切り崩しながら、人が住む場所を確保して来たのですね。
駅に、「日本遺産 旧運輸通信省松浦戦相浦駅」の説明がありました。
昭和3年 (1928)に着工した伊佐線は、昭和20年(1945)3月に相浦ー四ツ井樋(真申付近)間の開業によって全線が開通し、松浦線と改称された。相浦までの線路は佐世保港の軍商すみわけとして計画された相浦港への商業移転に伴い、海岸沿いを通る新規路線として建設されたが、地質と地形が悪く難渋し陸軍の鉄道連隊が出動し完成に漕ぎ着けた。相浦駅はトンネルを通って階段を上がる珍しい構造であり、地形に制約を受けた難工事の様子を留めている。しかし、線路や埋立地は完成したが、終戦により相浦港への商港移転は中止され、戦後は石炭の積出港として活用された。
周囲より小高いホームに立つと、西側は漁港と東シナ海の一部が見え、反対の山側は小さな谷戸で数件の家がありました。
「軍商すみわけ」、なんとなく字面から意味はわかるのですが、戦前の用語や社会の雰囲気は知らないことだらけですね。
*明治以降の相浦*
Wikipediaの相浦の「概況」を読むと、このあたりは「国内屈指の旧石器・縄文遺跡の密集地帯」とあり古くから人が住み、平安・鎌倉時代からさまざまな産業が興り人の行き来があり、長い歴史がある地域のようです。
伊能忠敬も文化10年(1813)に全国測量の折にこの地を訪ねたことも書かれています。
私が相浦に到着したのが朝8時ごろでしたが、漁船がたくさん停泊し、人はそこそこ歩いていましたが、波の音ぐらいしか聞こえないほど静かな場所でした。
その漁港は、以前は石炭の集積港だったことが書かれています。
明治以降、昭和30年代頃までは北松炭田からの石炭積み出しなどで栄えた。現在の松浦鉄道九州線の前身である佐世保鉄道はもともと相浦港への石炭輸送のために建設されたものである。炭鉱閉山後は川下町に長崎県立大学や総合グラウンドが建設されたほか、佐世保中心街に対するベッドタウンとして住宅建設が進んでいる。
このあたりに北松(ほくしょう)炭田という大きな炭鉱があったのですね。
石炭は1960年代終わり頃まで通った小学校のストーブに使われていて身近なものでした。寒冷地でもすぐに教室が暖まる火力の強さは心強いもので私にとっては懐かしいのですが、エネルギー転換とか環境問題で、この半世紀ほどで人が持つ印象が変わってしまったもののひとつかもしれませんね。
大潟にある相浦駐屯地の「沿革」を読むと、江戸時代に造られた干拓地は1941年(昭和16)に旧海軍佐世保第二海兵隊が設置され、戦後はアメリカ軍が進駐、1955年(昭和30)に返還され翌年に陸上自衛隊が移駐したという変遷があるようです。
「大学駅」と「相浦駅」のひと区間の一世紀ほどの変遷は、今の静かな風景からはちょっと想像がつかないものでした。
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