記憶についてのあれこれ 145 災害の記憶

私自身がまだ東日本大震災のことをあまり思い出したくないぐらい、あの理不尽な日々のことが整理できていません。

2012年にこのブログを書き始めたのは、生きている間に遭遇するたくさんの理不尽なことをどうやって考えたらよいか、反対に何を避けたらよいかを少しずつ言葉にしてみようと思ったのですが、大震災が大きな転機になったのだと思い返しています。

 

さまざまな思いがあり、言葉にできないものもたくさんある。

ですからタクシーの運転手さんにはこちらから当時の状況を尋ねることはしませんでした。

北上川に放水路が造られて、旧北上川と別れていることを地図で見つけて、いつか行って見たいと思った」とだけ伝えたのでした。

 

*70年前の記憶*

 

放水路が造られるぐらいなので旧北上川は相当水量が多い川だったのでしょうと尋ねると、「この辺りでは大きな水害は聞いたことはないけれど、何十年か前には上流の堤防が決壊して大変だったらしい。カスリーン台風だったっけ?北上川の水流を減らして下流の被害を減らすために、どこかもう一ヶ所壊すことになった時に、町長同士でかなり揉めたという話を聞いたことがある」とのことでした。

 

あの多摩川の築堤爆破と同じような状況だったのですね。

Wikipediaの「北上川」の台風で改められた河川改修に書かれていることとつながりました。

1947年(昭和22年)のカスリーン台風、翌1948年(昭和23年)のアイオン台風と北上川流域には2年連続で台風が襲来。一関市等では立て続けに甚大な被害を受けた。宮城県でも低湿地帯の多い登米郡・栗原郡付近においては甚大だった。

 

この行間には、そんなに厳しい判断を突きつけられた状況があったのですね。

どちらが正しいかなんて判断はつかず、簡単に折り合いをつけられるようなものではない。

でも大事な記憶が、運転手さんのようにその後に生まれた世代にも引き継がれている。

 

東日本大震災の記憶*

 

そのうちに、運転手さんの方からあの日のことを話し始められました。

「この川(現北上川)の下流が、あの大川小学校」と。

 

どの立場にたっても辛すぎることで言葉に詰まり、「ああ、つらいですね」と答えた後、しばらく会話が途絶えました。

 

東日本大震災の被災地は広範囲だったので、この北上川下流だったことがつながっていませんでした。帰宅して確認すると、国土地理院の災害伝承碑ではないのですが、「大川小学校献花台」が地図にありました。

 

 

ようやくこの地域の当時の状況を尋ねてみましたが、「この辺は大丈夫だった」とおっしゃられただけでした。

おそらく長く続く余震や停電、物流も止まり、生活すること自体が大変だったことと思いますが、まだまだ言葉にならなかったのか、それとも下流の状況に配慮して言葉を飲み込まれたのでしょうか。

 

 

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