散歩をする 152 北上川を渡る

バスの車窓から見えた北上川河川歴史公園ですが、柳津駅からは徒歩でもまわれそうな距離にあります。

ところが、あらかじめ航空写真などで想像していた通り、現北上川の左岸は小高い山になっていて橋に行くまでに坂道を登るようになりそうです。

また、公園内も灼熱の太陽から避難できるような場所ものもなさそうだったので、タクシーで回ることにしました。

出発前に、タクシー会社の場所を確認しておいたのは幸いでした。

 

「次のBRTの出発時間までに戻ってこれるように、北上川河川歴史公園と周辺を回って欲しい」と運転手さんにお願いしました。

おそらく、最初はなんと酔狂な客と警戒されたのだと思いますが、「川と水田に関心が出て、北上川を見てみたいと思って来た」ことを伝えたら、私と同世代ぐらいの運転手さんが、俄然、いろいろな話をしてくださいました。

 

*柳津大橋で北上川を渡る*

 

北上川河川歴史公園へ行くためには、北上川にかかっている柳津大橋をまず渡ります。

周囲の山々の緑と北上川の青い水が映える、美しい薄緑色の橋です。

気温が33℃もある熱風の中で、橋の改修工事が行われていました。

 

「この橋ができる前は木の橋だったから、バスなんかゆっくり走ってた。今はしっかりした橋になったから助かった」とのこと。

「昔は、舟と舟をつないだ橋だったそうだし、だから『ふなはし』という地名は大事だね」と、まるで私が知りたいことを見越してくださるような話が続きました。

かなり水量も多く流れも早そうな北上川で見ているだけで足がすくみそうですが、橋がない時代は渡し船もあったのか尋ねると、「あの反対側に見える場所が船着き場で、数年ぐらい前までまだ舟があった」と教えてくださいました。

北上川旧北上川の分岐する手前に、コンクリート製の船着き場が見えました。

 

帰宅して検索すると、「仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル」というサイトに「宮城県の渡船を考える」(2010年6月5日)という記事があり、「登米市内の北上川渡し船が今月4日に運行を打ち切った」と書かれていました。

そして「登米の渡し(北上川)」には渡し船と橋の歴史が書かれています。

登米市柳津町豊里町を結ぶ、住民の足として運行され、一般人も利用できた。今回廃止の報道。

ところで、肝心の渡しの名称が不明だ。河北も毎日も、記事では固有名詞を記さずに北上川の渡しなどと表現している。地元でもあえてネーミングなして通用していたのだろうか。或いは片岸だけの地名を迂闊に出すわけにはいかないという深慮か。ネットで検索してみると、ブログなどでは、鴇波渡し、とも、白鳥渡し、とも表記されていた。

 

 

なお、宮城県内の北上川には、今回廃止の登米市を含めて2つの渡しが残っていたが、かつて北上川旧北上川には多くの渡船場があった。ishinomaki-wikiによると、梨の木渡、釜谷渡、元舟場渡、新舟場渡、門脇渡などがあった。明治15年、内海橋が中瀬を挟む両岸に架けられたが、県内の北上川最初の橋である。福井出身の内海五郎兵衛翁が個人で架橋し、時の松平正直宮城県令が翁を讃えて命名したもので、建設費を賄うための有料橋であった。明治28年に錦桜(きんおう)橋(初代)が、同38年に楓橋(米谷大橋の前身)、大正6年に来神橋(登米大橋の前身)などが、架けられる。更に、昭和8年内海橋(3代目)、昭和34年天王橋、昭和40年代には神取橋、石巻大橋、柳津大橋(2代目)、開北橋、豊里大橋、飯野川橋などが完成。昭和51年の新北上大橋開通に関しては、釜谷橋が廃止。市内の門脇と湊を結んだ最後の渡船も、昭和63年11月に歴史を閉じた。

 

木製の初代の橋に代わって今の橋になったのが昭和40年代だったようです。

 

旧北上川を渡り対岸へ、そして柳津駅へ*

 

柳津大橋を渡るとじきに北上川河川歴史公園があります。

 

門脇洗堰の上を通り、公園内へ。

最初はこの公園内にある歴史的建造物を見ようと思ったのですが、タクシーの運転手さんのガイドをもっと聞きたくなり、このまま北上川右岸から左岸を周ってみようと計画変更しました。

 

公園内を通り、旧北上川を渡ると、右岸の堤防の上を車が通行できるようになっていています。

 

「あの川の中にある杭がたくさんある場所、あれが上流からの流木やゴミを受け止めるもの。時々、溜まったゴミや木を取り除く作業がある。子どもの頃は、あのあたりでよく泳いだ」とのこと。

そういえば、あちこちの川で見かけるのですが、魚を採る仕掛けだと思っていました。

 

しばらく行くと取水塔が見え始めました。

「あれが取水塔。登米市全域の水道をまかなっている」

ああ、質問しようと思った答えが、次々と出てきます。すごい!

 

行く前に地図で登米市周辺をながめながら「どんな街なのかな」と想像しつつ、行くにはタクシーしかなさそうなのであきらめていた風景が目の前に広がっています。

古い町並みもところどころ残されていて、北上川とともに歴史を重ねてきた街なのだろうと、また一つ記憶に残る街が増えました。

 

登米大橋を渡って柳津駅へ戻る途中では、「この辺りを松尾芭蕉が歩いたらしい。あまりにみすぼらしい姿で、追い返されたという話を聞いたことがある」と。

この北上川沿いを歩いたのですね。ここから一ノ関まででも50kmぐらいはあるそうですが、今でもこんなに惹きこまれる北上川河畔の風景ですから、当時は過酷な旅を慰めてくれたのかもしれないと、勝手に想像しました。

 

柳津駅が近づいてきました。

「駅から上流側の集落は、この北上川(放水路)ができる時に今の北上川下流の地域から移転してきた人たち」とのことでした。

そういえば柳津駅に降り立った時、駅の北側がまるで崖があったかのように3mほど高くなっていました。もしかしたら、放水路より相当高い場所へと移転がすすめられたのかもしれません。

 

北上川の「近代河川工事〜付け替えと運河〜」によれば、この開削工事は1911年(明治44年)から1934年(昭和9年)ですから、一世紀ほど前のことです。

北上川流域では、柳津駅周辺の集落は比較的新しい街として認識されているのでしょうか。

 

一人で歩いただけでは気づかない話をたくさん知ることができたのも、タクシーの運転手さんに出会ったからこそで、金銭の価値以上の何かでした。

 

もう少し続きます。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら