散歩に行った後にゆっくりと記録を書いているので、あの雑木林に見えたレールや、線路跡を利用しているように見えた道のことが気になったのですが、ようやくその理由がわかりました。
名鉄三河線に経緯が書かれていました。
名鉄三河線とは「愛知県豊田市の猿渡駅から愛知県碧南市の碧南駅までを結ぶ名古屋鉄道」で、たしかに地図では新豊田駅の先に猿渡駅があり、そこで名鉄線は終わっています。
「名鉄三河線 一部路線の営業終了案内(2003年)」に詳細が書かれています。
2004年4月1日には両端区間(西中金駅ー猿渡駅間、碧南駅ー吉良吉田駅間)が廃止された。これらの区間は閑散区間で、西中金駅ー猿渡駅間は1985年から、碧南ー吉良吉田駅間は1990年から合理化のため電気運転を廃止し、小型のディーゼルカーであるレールバスによる運転に切り替えていた。しかし両区間の乗客の減少は続き、名鉄は1998年11月24日に鉄道事業の合理化策として赤字路線の6線区(末端区間と揖斐線黒野駅ー本揖斐駅間、谷汲線黒野駅 ー谷汲駅間、八百津線明智駅ー八百津駅間、竹鼻線江吉良駅ー大須駅間、いずれも輸送密度が2,000人/日未満の過疎路線)を廃止する方針を決め、2000年3月に末端区間など赤字6線区の廃止届を同年9月末までの提出する方針を決定した。同月中には翌2001年10月までに廃線とすることを沿線自治体に通知した。本来の廃止予定だった同年9月末から沿線自治体による年間最大1億円(山線区間)の赤字補填で鉄道の存続が図られたものの、このまま赤字補填を続けても近い将来に三河旭駅ー中畑駅間の矢作川橋梁の架け替えに莫大な費用(150-160億円と概算)がかかるとの懸念から、西尾市が先立って存続を断念する表明をしたことで海線側の廃止(及び代行バスに転換。沿線自治体は碧南市・西尾市・一色町・吉良町・幡豆町)が決まり、山線沿線自治体(豊田市・足助町・藤岡町・旭町・小原村)も追随する結果となった。そして2003年3月27日には海線の、8月6日には山線の廃止届がそれぞれ名鉄から中部運輸局を通じて国土交通省に提出された。
前日に通過した吉良吉田駅を通過するのが海線、そして足助方面へ向かうのが山線だったようです。
吉良吉田駅と碧南駅を結ぶ電車があれば、「蟹の口」のような海岸線をぐるりと回れるのにと妄想していたのですが、なんと20年前までは可能だったとは。
「雑木林の中に見えたレール」についても説明が書かれていました。
山線廃止区間は山間部ゆえに放置されたレールが落ち葉に埋もれるなど自然に還りつつある部分もあるが、地元自治体の活動(後述)により枝下駅や三河広瀬駅が広場として一部整備された他は駅舎・ホーム・レール・鉄橋(矢作川橋梁など)はほとんど撤去されずに廃線当時のままの姿が残っている(踏切部分は撤去)。同区間では廃止後、地元では廃線跡と未成区間の用地を活用し、遊歩道兼サイクリングロードとして猿投から足助までを結ぶ「でんしゃみち」構想が計画され、計画の一環として自治体による廃線跡の整備やボランティアによる路盤の手入れが行われている。
西中金駅跡は、三河広瀬駅からコミュニティバスで大きなお寺を通過したあとに足助までの途中にありました。
そこから先は、まだ鉄道が敷かれていず、路盤だけが準備されていた区間だったようです。
1990年代に知人に勧められたあとにすぐに足助を訪ねれば、この鉄道に乗ることができていたのですね。
今でも路盤を整備して保存しているのですから、当時は、廃線が決まる前のこの地域の雰囲気はどんなものだったのでしょう。
無駄な公共工事、民営化、赤字路線の廃止、補助金に頼らない、コストを抑えるそんな言葉が社会の雰囲気を作っていた時代でした。
歴史に「もし」はないけれど、もしあの頃もう少しその流れにブレーキがかかっていたら、今頃、「環境に優しい鉄道や公共交通機関が網羅されて人の足となり、大勢の人を集めなければ成り立たないような観光ではなく、その地域の歴史や産業を大事にした観光」が成り立っていたかもしれない。
「なぜあの戦争に反対しなかったのか」と父の世代に問うたのが、今度は問われる側になったのだと思うことが増えてきました。
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