水の神様を訪ねる 43 不忍池と辯天堂

7月中旬に早朝の不忍池の蓮を見に行きましたが、近所に住んでいたら毎日でもこの辺りを散歩したいと思いました。

30年以上前にこの近くに住んだのに、あの頃は池を眺めるなんて全く関心がなく、歩いたのは1~2回でしょうか。

もったいないことをしました。

 

2015年に上野動物園にパンダを観に行ったことから、気が向くと不忍池周辺を歩いています。

 

 

早朝に蓮を見に行った2週間ほど前にも、ふらりと行きました。

池の真ん中に辯天堂があり、今回はそれが目的です。

たまにそばを通ってその説明板も読んだ記憶があるのですが、もう一度読んで見て、そうだったのかと印象に残りました。

 

不忍池(しのばずのいけ)辯天堂(べんてんどう)は、江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。

天海大増上は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味しました。例えば「寛永寺」というお寺の名称は「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。

こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうてん)が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。

琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。

昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が奉納されました。

 

不忍池辯天堂ホームページ「不忍池辯天堂の歴史」より)

 

昨年、琵琶湖を一周したり瀬田川や琵琶湖疏水を訪ねたので、「琵琶湖と竹生島に見立て」という一言に惹きつけられました。

 

 

*都心に広大な池があること*

 

辯天さまは「音楽と芸能の守り神」さまだそうで、また境内にある大黒天は「福を授ける神・福を招く神」さまだそうですから、水の神様とも違うようです。

 

不忍池に行く時には千代田線を利用することが多いのですが、Wikipedia不忍池の「変遷」にこう書かれています。

1967年9月19日には、不忍池と地下鉄千代田線の建設現場を仕切る柵が崩れ、約3万トンの水がトンネルに流れ込む事故が起きている。復旧業はすみやかに行われて同月24日は水を入れなおした。

地下鉄のある風景が当たり前すぎるようになった自分を戒めるために、今も千代田線のこの区間に乗るたびに思い出しています。

 

さらに時代は進んで、水深1mに満たないこの池を埋め立てて、大きなビルを建てることも可能になったのではないかと思います。

 

ところが、こんなに広大な池が整備されながら残され、ふらりと立ち寄ってはこの風景を楽しむことができます。

ですから、あの辯天さまも水の神様だと勝手に思っています。

 

そうそう、カワウの日本の大コロニーは不忍池と琵琶湖の竹生島ですから、ヒトだけでなくカワウや他の生物にも琵琶湖と共通点がある池なのかもしれませんね。

 

 

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