初めてといってよいと思うのですが、大船渡という地名を聞いたのが2011年3月11日でした。
本棚が倒れないように押さえながらテレビをつけたとたん、大津波が人を車を飲み込んでいく映像が目に入りました。
車の赤いランプがついているのであの中に人が乗っていると思うと、見てはいけないことを見てしまったような罪悪感のような気持ちがいまも蘇ってきます。
その場所が「大船渡」だと画面に出て、未曾有の震災の日々に都内でも突入して行く中、あの車の中の方の安否確認のために大船渡の情報を追っていました。
刻々と各地の被災状況が伝わる中で、想像を超えた被害に、その情報を得ることは叶わなくなりました。
あの日以来、東日本大震災というとあの昼間なのに暗い海水の中に光る赤いランプの映像と、大船渡の地名がまず浮かぶのです。
仕事がら、人の生き死にの境のような状況にも耐えられる覚悟のようなものがあると思っていましたが、いまでもその場面を思い出すだけで動揺する自分がいます。
大船渡を訪ねられるようになるのには、まだまだ時間が必要だと思っていました。
*美しい晩秋の大船渡湾*
2年半前に大船渡線に乗り美しい沿線の風景を見ることができ、気仙沼駅から先のかつての大船渡線を訪ねて見たいと思うようになり、晩秋の季節に実現しました。
陸前高田を出てから小高い場所の一般道路を通り、またかつての大船渡線の線路跡と思われる専用路に入りました。
水田地帯の中、電気柵!
小友(おとも)、数人乗る、美しい、また一般道へ
門前貝塚、山道へ、大船渡市境
入江が見えた
美しい湾が見えてきましたが、ここはまだ碁石海岸駅手前の門の浜湾のようです。
細浦駅のあたりからずっと海がすぐそばになり、いよいよ大船渡です。
名前の通り、細長い湾に沿ってバスが進んで行きました。
大船渡湾、美しい!
メモを残したのはこの一言だけで、ずっと海岸の風景に見入っていました。
不思議と、あの思い出すだけで動悸がするような感覚もなく、なんだか懐かしいような泣きたい気持ちでした。
下船渡駅、大船渡魚市場前から大船渡駅と進むにつれて、新しい港や工場、家が広がり、対岸にも工場が見えました。
紅葉が少し始まった山を背に、静かな街でした。
しばらくまっすぐ進むと三陸鉄道の線路と並走し、以前からの家々の残る街の風景になり、バスが終点の盛駅に到着しました。
帰宅してから、Wikipediaの大船渡市の「歴史」を読みました。
1896年(明治29年)6月15日:明治三陸地震が発生し、三陸は津波による被害甚大。津波遡上高は、気仙郡綾里村(りょうりむら。旧:気仙郡三陸町綾里、現:大船渡市三陸町綾里)で海抜21.9m、綾里湾の奥(綾里村近隣)では38.2mにも達した。
1933年(昭和8年)
・3月3日:昭和三陸地震が発生し、三陸は津波による被害甚大。気仙郡綾里村(現:大船渡市三陸町綾里村)は津波遡上高、海抜28.7mを記録した。
1959年(昭和34年)
・9月27日:伊勢湾台風が東北に再上陸
1960年(昭和35年)5月24日:チリ沖で5月22日(現地時間)に発生したマグニチュード9.5のチリ地震が引き起こした津波が三陸海岸に到達し、大船渡市では死者53人を出した。
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