米のあれこれ 30 廻米

Wikipedia八戸港の歴史を読んでいたら、初めて見る言葉がありました。

「廻米」です。

検索するのにも漢字は一発で転換できず、「廻船」の「廻」と「米」で入力しながら、もしかして米をどこかに船で運ぶとか、「年貢米」に近い言葉かもしれないと想像しました。

 

東北の冷害に強い米の栽培は最近になってからだろうというイメージだったのですが、IGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道八戸線の沿線に、沢の水を利用した小さな水田がたくさん見えました。

 

岩手や青森で米を作り始めたのはいつ頃からだろうと気になっていたのですが、馬淵大堰とこの地域の稲作を検索していたら、「700年以上続く米作り」というニュースを見つけました。

「八戸・『すまもり中世の田んぼクラブ』が稲刈り 700年以上続く米づくり伝える」

(八戸経済新聞、2020年10月20日

 

 地域おこし団体「すまもり中世の田んぼクラブ」が10月18日、八戸市南郷島守の田んぼで稲刈り作業を行った。

 同クラブは2014(平成26)年から活動を開始。700年以上続くと言われる米づくりを多くの人に伝えることを主な目的に活動を続けている。

 南郷島守地区での米作りの記録は、南部師之(もろゆき)公が八戸市根城に城を構えた1334年にさかのぼる。6人の有力農家が年貢を納めた記録が残り、巻(まき)地区と沢代(さわしろ)地区には鎌倉後期の水田跡と思われる場所があることがわかっているという。中世の水田跡が確認されているのは、岩手県一関市、大分県豊後高田(ぶんごたかだ)市と、南郷島守地区の3カ所のみ。島守地区では中世時代から現代まで絶えることなく米作りが続いてきたと考えられている。

(以下、略)

 

地図で確認すると、八戸市南郷島守地区は新田川の上流の山間部のようです。

700年以上前の水田地帯、どんな風景だったのでしょう。

 

 

*廻米(かいまい)*

 

Wikipedia八戸港の歴史に書かれている「寛文4年(1664年)には八戸藩が江戸へ廻米し」は米を江戸におくっていたという意味でよさそうで、17世紀には相当な収穫があったのでしょうか。

 

廻米 かいまい

 

江戸時代に遠隔地へ米を廻送すること、またその米をいう。江戸幕府は、1620年(元和6)初めて江戸浅草位に御米蔵を建て、よく年大阪に御蔵奉行(おくらぶぎょう)を置いて諸国の廻米を収蔵した。諸侯も、大阪、江戸などの蔵屋敷へ貢租米を廻走して、市中の米問屋を通じて換金に務めている。江戸、大阪などの中央市場へは多量の米が廻送されたが、それらは、天領などからの御城米(ごじょうまい)、藩からの蔵米(くらまい)のほか、商人が農民からの貢租余剰米を買い付けた納屋米(なやまい)もあった。江戸幕府は、米の輸送の安全のために厳しい廻米仕法に務めたので、城米の品質や員数などが厳重に点検された。廻米には、海路が多く用いられたが、河川や駄馬も併用された。交通の整備とともに廻米は増加し、市場に米の供給が過剰となった享保(きょうほう)(1716~36)以降、幕府はしばしば江戸、大阪への廻米を制限して、米価の調節を図った。

コトバンク日本大百科全書(ニッポニカ))

 

日本史で概ね同じような内容は習ったような気がするのですが、なぜ「廻米」という言葉を初めて見たのでしょうか。

 

それにしても、米が足りなくなったり余ったり、昔も今も大変ですね。

ヒトの歴史の中での少し前という意味ではつい最近まで、農家でさえ十分に米を食べられない時代でした。

そのわずか半世紀後には、海外からの支援米をまずいと捨てるような時代になったり、ダイエットのためにお米が敬遠されたり、「廻米」という字からなんだかめまいがするような時代の変化を思いました。

 

 

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