本宿用水が潤した水田地帯を見たあとは、両親との思い出の地の一つである柿田川湧水群をまた訪ねようかと思いながら地図を拡大したり縮小したりして計画を考えていると、本宿交差点から数百mのところに「窪の湧水」を見つけました。
湧水を見たい、そしてせっかくだから三島周辺のまだまだ行ったことがない水路を歩くことにしようと決めました。
本宿交差点から東へ道なりに歩いていくと少しずつ上り坂になり、JR御殿場線の踏切を渡ると大きな製紙工場が見えました。製紙工場と住宅街の細い路地を歩くと、工場の厚生施設でしょうか、古い体育館がありました。
三島にも製紙工場があったなんていつごろできたのだろう、富士市と同じ1970年代ごろかと思いながら歩いていると、今度は東海道本線の踏切がありました。
そこを越えると住宅地で、100mほど歩くと竹藪の中に急な下り坂があって、水の音が聞こえ始めました。
*窪の湧水*
小さな崖の下に「窪の湧水」がありました。
静かに静かに水が湧き出しています。水の中を眺めると、梅花藻だと思うのですが小さな白い花が咲き、水草が静かに揺れていました。
地蔵川を訪ねた時に初めて知った梅花藻ですが、あの時は夏でした。こんな真冬にも咲くのかなと調べたら、一年中咲くようですね。
子どもの頃に遊んだ湧き水を思い出して、しばらくベンチに座っていました。
竹原富士湧水群
富士山の伏流水が湧きだして、池をつくっている。長泉町では唯一の富士の湧水といわれている。
この池は、1854(安政元)年11月に当地方に大きな被害をもたらした、大地震のさいに湧きだしたことが、本宿の高田家に伝わる古文書に記されている。
また、池の名前も、「窪の湧水」、「泉湧水池」などとも呼ばれている。
「安政の大地震」、あの深大寺用水建設のきっかけとなった地震だと歴史がつながりました。
「伊豆半島ユネスコ世界ジオパーク」の「黄瀬川が作ったまちなか湧水」という説明板があり、どのようにこの窪の湧水ができたかが書かれていました。
湧水のそばには、もう一つ説明板がありました。
「窪の湧水」は、江戸時代の安政元年(1854)11月4日に発生した大地震により、水が湧き出しました。
その後、本宿村は竹原村から水利権を得て、農業用水として取水を始めました。
高野製紙所(特種製紙株式会社の前身)が本宿に5,000坪の工場用地を取得し、大正7年(1918)にこの湧水を取水して操業を開始しました。
湧水量は毎分8トン(日量12,000トン)を超えていました。
「窪の湧水」は標高15~20m、沖積地およびその段丘崖を含む地形で、はるか昔の自然をしのぶ貴重な照葉樹林が残っています。
これまで「窪の湧水」は、地域の皆様に愛されてきました。
毎年5月下旬には蛍が舞い、夏には子供たちの水遊びする歓声が聞こえてきます。
また、小学生や園児の自然観察の場としても活かされています。
この残されたふるさとの森「窪の湧水」を、これからも地域の皆様と共に大切に守り、憩いと安らぎの場となることを願っています。
池の真ん中に土管のようなものが見えるのですが、その説明板に「特殊製紙(株)の操業当時、この取水管から湧水を引き、洋紙を造りました」と書かれていて、「特殊製紙株式会社 創立80周年 平成18年11月21日」とありました。
坂道を下ったところで聞こえる水音は、この湧水池から崖下沿いに西へと流れる水路からで、製紙工場へと流れているようです。
地図で偶然見つけた湧水でしたが、この地域の水の歴史がパッと開けて見えてくるような場所でした。
長泉町もまたその名の通り、水が豊富な美しい街ですね。
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