行間を読む 156 野辺地の日本最古の鉄道防雪林

昨年秋にIGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道で八戸を訪ねることが実現した時に、次はいつか青い森鉄道も全て乗ってみたいと思いました。

途中の野辺地(のへじ)駅からはJR大湊線が出るのは、青い森鉄道国鉄時代に東北本線だった名残とも言える場所ですね。「野辺地」どんなとこなのだろうと、楽しみにしていました。

 

地図を拡大したら、駅の南西側に「日本最古の鉄道防雪原林」とありました。

線路沿いですが、ぐるりと北側へと迂回して反対側に行く必要がありそうです。下北半島のバス乗り継ぎまでの40分ほどで行けそうだったら訪ねてみようと計画していました。

 

列車がホームに着くと、目の前に見上げるようなその防雪林が続いていました。小さな公園になっているのか中を歩けそうなのですが、やはり迂回したらバスに間に合いそうにありません。残念だけれどあきらめました。

時間があいたので駅前に出てみると、そばに観光協会の建物があったので立ち寄ってみました。

お土産を売っている奥に何か資料が置いてありそうです。

 

 

*日本の公園の父 本多静六

 

 

その鉄道防雪林を計画した人についてのパネルがありました。

 

「日本の公園の父、鉄道防雪林の生みの親 本多静六

日本最初の林学博士として日本の造林学・造園学の基礎を築いた本多静六は「野辺地防雪原林」の生みの親でもあります。また東京・日比谷公園をはじめ全国各地の公園の設計も手がけたことから、「日本の公園の父」とも呼ばれています。平成5年の鉄道防雪林百周年記念式典を機に、野辺地町と埼玉県久喜市との交流が始まりました。

 

「東京の公園の歴史を歩く」を読み返したら、たしかに日比谷公園本多静六の案によることが書かれていました。

 

パネルには、慶応2年(1866)に久喜市で生まれた本多静六氏が9歳で父親を亡くし経済的に厳しい生活だったこと、その後の人生について書かれていました。

日本最初の林学博士になる

明治32年(1899)3月、本多静六は「日本森林植物帯論」という論文で日本初の「林学博士」の学位を取得しました。昭和2年(1927)に定年退官するまで35年間教壇に立ち、日本の造林学、造園学の基礎を築くとともに、多くの後進の指導にあたりました。

その一方で、日本各地の水源林の整備や鉄道防雪林の創設、公園の改良設計、都市計画等さまざまな分野で多くの業績を残しました。また、私生活では「1日1頁の文章執筆」と「四分の一天引き貯金」の実践により、生涯に370冊余の著書と多額の財産を築くことに成功しました。

 

努力を重ねて大成功し、社会貢献を果たす

少年時代から学生時代にかけて貧乏な生活を送った静六でしたが、努力を重ねた結果、学者として大きな成功を収めることができました。

本多静六は自らの苦学の経験をもとに、埼玉学生誘掖(ゆうえき)会の創設や埼玉県への山林の寄付を通じての奨学金の創設、さらには学校・団体等への寄付活動など、さまざまな社会貢献事業に取り組みました。

自ら立てた「人生計画総括表」でも66歳からは奉仕期とし、自分の経験と学問を活かし、全国各地で講演を行うなど生涯現役を貫きました。

 

個人の偉人伝というよりも、明治期には人類の為という雰囲気が何か社会を変えたのではないか。そんなことを思いました。

 

もう一枚のパネルには全国地図で、「本多静六博士が設計を手がけた全国各地の公園と地域発展案」として80ヶ所が示されていました。

本多静六明治30年代から昭和10年代の約40年間にわたって全国各地の数百にも及ぶ公園の設計、地域の発展案を手がけました。ここに掲げた一覧は、これらのうち所在が明らかなものを記したものです。

 

 

公園とは何かは一口では語れない、その明治時代に広がった「公園」という言葉と概念はやはり社会を大きく変化させたことの一つですね。

 

ふらりと立ち寄った観光協会の建物でしたが、充実した時間になりました。

 

鉄道防雪林については残念ながら説明を見つけられなかったのですが、野辺地駅を守ってきた大きな木々について防雪林の専門的な説明、この地の歴史や生活などの記録を読んでみたいものです。

 

 

 

 

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