事実とは何か 93 批判や謝罪ではなく、再発防止の視点へ

今までも夜勤の出勤前の時計がわりに午後2時台の番組をつけていたのですが、ゴシップとか批判ばかりのようでちょっと苦手でした。

最近は、これまで敬遠していた番組を録画して観ることもあります。

 

全ての番組を観ることはできないのですが、かちゃかちゃとチャンネルを変えながら時々比べた時に、日テレの「ミヤネ屋」が批判や糾弾あるいは政局の問題にしないで、あくまでも「この問題の再発防止とは何か」が中心になっている印象でした。

新型コロナウイルス感染が広がり始めた時に、同じ局のニュース番組が感染症対策に対して小さな基本的なことも小馬鹿にせずに説明し、不安を煽ることもなかったことと似ていると思いました。

 

長年、この問題に関わって来られた方々が質問に対して簡潔明快な返答されていて、理解が浅いコメントでは太刀打ちできない掘り下げ方になっています。

ウクライナの戦争についてもそうですが、イデオロギーにとらわれず、わかっている事実とわからないことをきちんと伝えようとする人の姿をテレビで見かけることが増えました。

 

冷静で、相手を罵倒したり引きずり下ろすような発言はなく、政治家の言動に対しても辻褄が合っていないことに対してはピシリと指摘するけれど、その人個人の考え方や信念や信仰を否定するようなことは言わず、「この問題は何か。どうしたら解決できるか」に焦点が当てられていると感じます。

 

そしていつだったか、宮根氏が「マスコミも変わらなければ」というようなことを話していました。

 

そうした社会の雰囲気の変化が、1ヶ月半経っても番組内で取り上げられ続けている理由かもしれないと思いながら観ています。

 

 

*まるでインシデントレポートとその分析を読んでいるような*

 

弁護士やマスメディアというと1990年台ごろからの医療批判や医療訴訟の時代を思い出して、初めは少し警戒しながら観ていました。

 

医療現場ではミスや事故が起きると、それが起きた時の秒単位の記憶と記録をすり合わせながら報告書を書くようになりました。

辻褄が合わなければ再発防止に役立ちません。

でも記憶をたどろうとすると記憶間違いだけでなく記憶もつくられてしまうことがあり、自分自身でもいったい何が事実だったのかわからなくなることもしばしばあります。

あるいは「言った、言わない」の混乱も起きます。

インタビューに応じている政治家の皆さんの「記憶がない」という苦しさもわかるような気がします。

 

好ましいことも好ましくないことも全て記録し、しかも裁判に備えて公開することを前提に記録しなければなりません。

 

 

そして自分の失敗に向き合うことも大変ですが、さらに社会の「許せない」という雰囲気に耐えていく必要があるのはなかなか尋常ではない精神状態になります。

 

 

今回は「接点というだけで政治家を批判するのはやりすぎ」という批判もあるようです。

ただ、リスクマネージメントでいえば「事故が起きてしまったことを分析するためのインシデントレポート」から医療安全対策につなげるために「事故がまだ起きていないけれど書くヒヤリハット」がありますから、「接点の濃淡」が問題なのではなく、「なぜ接点ができたか」を解明することが大事なのではないかと思いながら政治家の皆さんの答えを待っています。

政治家には失敗を生かすヒヤリハットの機会はまだないのか、30年ほどの社会の他分野の変化とは少し違うのかもしれません。

 

何が事実だったのか、記憶とデーターをたどり齟齬のない記録を書くというのは個人の訓練も必要ですが、それを生かすシステムがないと意味がありません。

それに対してこの問題を追って来られた方々は、政府の政策提示に対して「ここをさらに追加できれば良い」と現実的に失敗を生かすシステムまで見通しているようです。

 

政局の問題にしているわけでもなく、まさにリスクマネージメントの切り込み方だと思いながら解説を聞いています。

そして現実の問題に30年ほど対峙されてきた方々のすっと頭に入ってくる話に、Dreyfusモデルの「達人」を重ねています。

 

そしてお互いに責めたり懲罰感情を抱かせるのではなく、失敗を次に生かせるための報道へと、何か変化しているように感じて録画しています。

 

 

 

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