水のあれこれ 286 富士市の湧水と「泉の郷計画」

富士市というと1970年代の大気汚染と駿河湾のヘドロしかイメージになかったのですが、新幹線や東名高速道路で通過するたびに空が綺麗になっていくことを感じました。

それでも車窓から見えるたくさんの工場に、散歩コースとしては選択にないと思い込んでいました。

 

ところが工場の近くの浮島ヶ原公園が目に入り俄然この地域に関心が湧きました。そして2021年11月に製紙工場のすぐ近くにある泉の郷湧水公園を歩いて、私の富士市のイメージはすっかり美しい湧水と製紙工場が共存している街に変わりました。

列車で通過しただけではわからないものですね。

 

岳南鉄道の沿線には、地図で眺めると湧水公園や寺社や公園のそばに川や池が描かれている場所がたくさんあります。

いつかここを歩きたい、やり残したままの宿題です。

最初は二日くらいかけて岳南鉄道沿線を歩いてみようかと思いましたが、やり残したことを詰め込んだ計画ですから、そのうちの一つにしてみました。

 

岳南鉄道原田駅へ*

 

興国寺城跡から浮島沼に沿って歩き岳南江尾駅に到着したのが12時6分で、20分ほど時間があります。

お腹が空いたのですぐそばの新幹線の高架橋を眺めながらおにぎりを食べていると、白に青の美しい車体がなんと5本も通過して行きました。

なんと幸せな時間でしょう。

 

12時25分岳南鉄道に乗りました。隣の駅や沿線の住宅がすぐ近くに感じられるこういう路線も大好きです。きっと子どもの頃によく乗った都電を思い出すからかもしれません。

2014年からこの岳南鉄道に夜景電車が走っているというポスターがありました。工場の夜景に人気が出始めたことが私には意外に感じたのですが、驚異的な工業化にようやく生活が慣れてきたゆえでしょうか。

 

5合目まで雪がある富士山が車窓に迫るように見えてきました。

12時37分に原田駅に到着。なんと待合室が駅そばを食べる場所になっていて、良い香りが漂っています。しまった、おにぎりを食べてしまったと後悔と駅そばも食べたい葛藤に心が乱れましたが、先を急ぎます。さすがに塩分の取りすぎですしね。

またいつかの「やり残した宿題」ができてしまいました。困りましたね。

 

*原田湧水公園へ*

 

ここを選んだのは浮島沼に対して山側に「原田」という地名があり湧水公園があるので、昔は湧水を利用して棚田があったのだろうかと、実際に歩いてみたくなりました。

 

駅から北へと数百メートルほど緩やかに上ったところに原田小学校があり、そばには囂々と音をたてて水が流れています。さすが富士市の水の豊かさですね。

その向かい側は地図では工場らしい灰色に描かれていたのですが、なんと五條製紙という製紙工場でした。工場の敷地を横切るように通る道を東へと曲がると川が流れていて、曹洞宗の永明寺の横が鎧が淵親水公園になっていました。

 

ここから北東にあるかがみ石公園にも池が描かれているので、そこを訪ねてみようと途中の滝不動まで歩いてみましたが、ちょっとしたハイキングになりそうなのであきらめて鎧が淵公園へ戻りました。

公園内に入ると崖のような場所からいく筋も湧水が水路になって川へと流れ込んでいるため、あちこちから水の音が聞こえてきます。

 

この少し上流に原田湧水公園があるのですが川沿いには行けないようで、一旦小学校の前の道へと戻り、北へと歩きました。

 

公園の手前の橋からは数十メートル上流に川合が見えて、これまたどちらからも豊かな水が流れ込んでいます。

住宅の中に庭園のような原田湧水池公園があり、案内板がありました。

 原田湧水池公園は、市道原田小学校東側線を挟み、東側が旧原田簡易水道組合の水源地跡地、西側が滝川に注ぐ滝川2号支川で、随所に地下水が湧き出る場所で、昔この地域は豊富な湧水を利用した搗屋(つきや)が数件あり、搗屋町とも呼ばれていました。

 そこで、富士市は地域の特性である豊富な湧水を利し、水辺の保全と復元を目的にした水と緑の空間整備のため、昭和62年にふるさとの川モデル事業の候補地として計画しました。

 その後、平成元年に原田・吉永地区の居住環境の改善を柱として、湧水の活用、史跡の保存整備、竹採塚周辺の整備等を含めたまちづくり「泉の郷計画」が策定されたことから同計画の一環として整備いたしました。

 園内には、湧水を取り込んだ流れや池、昔懐かしい搗き臼と挽き臼を備えた水車小屋を復元し、四阿(あずまや)等の休憩施設も設置されています。

 

静かな公園を独り占めして、しばらく水の音に聞き入りました。

 

昭和62年(1987年)ごろは、まだ「環境」という言葉は社会では馴染みの薄い言葉だったと記憶しています。

1990年代に入って環境とか地球環境という言葉が広がったのには、こうした実践が先にあったということだったのかもしれませんね。

 

駅に戻るのに一本西側の道を選んでみたところ、川のそばに水神社がありました。

その境内に「原田町簡易水道記念組合記念碑」の石碑がありました。

おそらくこの辺りで取水した水が今も住宅の横の水路を流れていて、家ごとにその水路を堰き止めるための板が備えられているようでした。

 

 

それにしても小学校の前の水路だけでも相当な水量なのに、こうしてあちこちからの水が浮島沼へと流れ込んでいるのですから、どんな風景だったのでしょうか。

 

 

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