米のあれこれ 53 浮島沼から美田へ

八幡様の石段にあった平沼地区の土地改良記念碑に立ち寄って読んでみました。

 

平沼地區水田は地勢盆地にして排水悪く田区は零細不定にして腰丈迄没する深田が多く農道は悪るく農作業にも困難を極めた 少しの降雨にも冠水し災害は年々たえなくなった

茲に於て区民一同奮起して平沼土地改良区を設立して国庫の補助金県及び町の援助を受け昭和三十二年度より耕地の区画整理に着手し同三十四年度整地面積三十九町七反歩總事業費千七百五十万円を以って工事を完成し美田と化した

続いて北部畑地の農道傾斜急なる為め遂年損耗甚だしく農耕に困難を来し将来の農業経営城極度の支障を来す事を憂い平沼北部土地改良区を設定し国庫の補助金県町等の援助を得て昭和三十五年度より工事に着手し用地として山林畑地合計八千二百余坪を買収し県道入口起点より見透しの終点に至る總延長四千九十五米事業費二千二百余万円を以って昭和三十八年度完成し町道として町に移管する此の継続七ケ年に亘る二大事業完成は平沼区民積年の念願にして大きな喜びとなった惟れ高潔無私の理事長優秀なる技術者熱誠なる役員各位の計画こう(*手へんに肯)導宜しきを得他のは勿論組合員誉って寒暑に耐え寝食を(字が薄れて読めず)戴星踏月孜々として献身的に奮励し一心同体となって工事の遂行に専念した結果にして殊に県土地改良課並びに町当局の絶大なる援助の贈物である幾多の巨費と労力と人和とは遂に困難を克服して美田と農道を造成する事ができた実に欣こう(*挾の手へんがない字)(茲から字が薄れてよめず)本事業を詠して記念碑を作り後世に伝える

 

石碑には、東海道新幹線で一瞬で通過する富士の製紙工場群の手前あたりに見える広い水田地帯の歴史が書かれていました。

 

東海道本線と山陽本線を乗り継いで倉敷まで行った私が幼児だった頃の車窓からは、もしかしたら腰切り田とか乳切り田と呼ばれた風景が広がっていたのかもしれません。

 

そして大阪万博を観に行くために乗った夢の超特急の車窓からは田毎の富士が見える美田へと大きく変化していた時期だったのでしょうか。

車窓の風景の記憶がないことが悔やまれますね。

 

この石碑を知ることができただけでも、今回の散歩は大きな収穫でした。

 

 

 

*おまけ*

 

散歩で見つけた石碑を散歩の大事な記録として書き写すことが増えましたが、昔の漢字や文章は難しですね。

今回も撮っておいた写真を何度も眺めながら、漢和辞典や辞書を検索し、それでも見つからない字や意味がわからない箇所がいくつもあります。

私が生まれた頃にはこんなに難しい日本語が日常の中にあったのですから、言葉もまた驚異的に変化する時代だったようです。

 

 

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