看護学校への進学と同時に親元を離れ、その後は年に1〜2回帰るくらいでした。
十数年前に子どもが親を見守る側に逆転した時から、それまで一緒に暮らしていなかった時間の分、親の生活についてほとんど知らないことに直面しました。
食べ物の嗜好や日常の生活習慣でさえ、両親それぞれが変化しているわけですからよくわかりませんでした。
その頃から、私自身、仕事で接する患者さんや妊産婦さん、あるいは新生児についても、その人がどのように生活しているのか、ほとんど知らないままだったと思うようになりました。
あるいは、いつも一緒に働いている同僚とか、仲の良い知人とか、それぞれがどのような思いや価値観があり、どのような生活習慣があるのかほとんど知りません。
何となく、「この人はこんな感じ」というイメージをもとに接しています。
生活史では、「個々の生物の生涯にわたる生活の有様を指す」(生物学)、「個人の生活の様相」(社会学)と、あくまでも「個」が単位です。
治療法や感染症の対策については「エビデンス」に基づく医療ではあるのですが、個々の患者さんや社会の生活となるとまだまだ観察されず、記録もされていない部分がほとんどだろうと思います。
*社会を過度の一般化でくくり語る*
この「生活のあれこれ」というテーマで書いてみようというきっかけになったのが、「SDGsを誰もが叫ぶ時代にレジ袋有料化を白紙に戻す時代錯誤」(JBpress、2021年10月9日)という記事の、「「レジ袋はゴミ袋として再利用している論」の詭弁」でした。
その記事にこんな箇所がありました。
実際に、大阪市と寝屋川市の家庭から出されたゴミ袋の中に含まれるレジ袋を分析した研究「ごみの仲の実態に基づくレジ袋削減の可能性」では、現状に比べて55~57%のレジ袋が削減可能という試算がはじき出されている。
レジ袋を単体でゴミ袋として使用しているケースももちろんあるが、小さなレジ袋などの場合、ゴミを入れた小さなレジ袋(小袋*)を結局大きなゴミ袋(親袋)に入れていたり、小さなレジ袋(小袋)の中にまた別のレジ袋(孫袋)がいくつかまとめられて入れられていたりと、ゴミ袋の重複した使い方が多く見られたからだ。また、空のレジ袋がゴミ袋に含まれている割合も3割近くあった。
*原文のまま、引用先の論文では「子袋」
寝屋川市の調査は2005年の論文のようですから、まだ世界規模の感染症拡大なんて想定もしていない時代でした。
昨年来、ごみ収集する方々のリスクを減らすために、マスクやティッシュなど袋が破けた時に触れる可能性があるものは二重にして捨てるように変化してきました。
当時は「もったいない」とかダメな方法であったものが、現在では推奨されることもあります。
一人一人がどのような判断で、生活の中でどのような方法を取捨選択しているのか、それはどれくらいの割合なのか、生活の実態はわかりにくいものです。
この著者のブログを読んで見たら、「イギリスから考える〇〇〇の丁寧で豊かな暮らし」「△△のベジレストラン、オーストラリア産のグルテンを使った団子」とか、まあそれぞれの思いや生活史がありますよね。
たとえば最近では、私自身は野菜の個別包装の保存機能に助けられ、必要な時はカット野菜を購入するほうが私自身の生活パターンでは無駄になってしまう食品を少なくできると判断して利用しています。
それぞれにはそれぞれの生活があることを理解できないと、無意味な議論と感情のやりとりだけが広がりそうですね。
「生活のあれこれ」まとめはこちら。
レジ袋とかエコについてのまとめはこちら。
ごみについてのまとめはこちら。