記録のあれこれ 107 石田堤史跡公園

ふたたび武蔵水路沿いに戻って遊歩道の新幹線の高架橋の下を通ると、今度は左右の風景が水田地帯になりました。もうこの風景を見ることができただけでも満足です。

 

遊歩道の途中のベンチで、一休み。水田を眺めながらのおにぎりはまた格別の美味しさですね。いったいこの目の前の水田から何個のおにぎりができるのでしょうか。

そのベンチからは新幹線が通過するのも見えました。たくさんの白鷺の向こうに、Maxときが通過していきました。あの2階建の車両も10月中旬までで、寂しい限りですね。

 

*石田堤史跡公園へ*

 

さて、武蔵水路を数百メートルほど歩いたところで左へと曲がると新忍川に出て、そこにかかる堀切橋を渡ると、右岸の少し小高い場所に石田堤(いしだづつみ)史跡公園がありました。

 

この堀切橋に、土木遺産の説明板がありました。

・竣工 昭和8年

・構造形式 鉄筋コンクリート桁橋

・選定理由

 埼玉県内で8ヶ所目の土木学会選奨土木遺産となる「堀切橋」は、親柱項部に尖頭(せんとう)半球が施され高欄には三角形等の空間がある。これらの表面に幾何学模様が刻まれており、野外アート風の橋である貴重な土木遺産であることが評価され、認定されたものです。

 なお、堀切橋の名前は、戦国時代に石田三成忍城を水攻めにした際、この付近で石田堤が破堤したことが由来とされている。

 

橋一つとっても、知らない専門用語ばかりですね。

 

少し小高くなった一帯が、美しい公園として整備されていました。

国土交通省関東地方整備局の「石田堤 〜石田三成の水攻めの跡〜」に、その全貌がわかる図が公開されています。

 

荒川、利根川の水を引き込み、忍城を水攻めにするため前長14kmにわたり築かれた石田堤がみられます。現在も点在して残っています。

 

 1590(天正18)年石田三成忍城を水攻めにすべく、元荒川の自然堤防の一部等を利用して築いた堤が石田堤です。この時、三成の城を落とす作戦は、城の周囲に14km(28km、4kmとする説もあり)もの堤を築き、荒川と利根川の水を城内に流し込む水攻めでした。この地域に点在していた古墳を取り崩しその土などを利用して自然堤防を補強して繋ぎ短期間で堤を築いていったと推測されています。一説には堤をわずか5日間で築いたともいわれていますが、当時の記録から忍城攻めが始まって約1か月後の7月前半にも堤の補強等を行われていたことが伺えます。突貫工事で築いた堤を水攻めにしながら補強していたようです。

 さすがの忍城も約1ヶ月の攻防のはてに開城となりましたが、日本でも数少ない水攻めの史跡として知られ、現在は行田市堤根地区に残る282mが埼玉県指定史跡に指定されています。また鴻巣市袋に残る約300mが鴻巣市指定史跡に指定されて、石田堤史跡公園として整備されています。

(「石田堤とは」)

 

 三成は、6月初旬頃に布陣して丸墓山の上に立ち、その地形から忍城を取り囲むように堤を築いて利根川、荒川の水を引き込み城を水攻めにすることを決めたと伝えられています。しかしながら実際には秀吉の強い意向で水攻めは行われたと推測されています。

(同「三成の忍城攻め」)

広大な地域を短期間で囲んで水攻めにするという情熱というか、敵意はどこからくるのか、戦国時代に生まれなくて良かったというのが正直な感想です。

 

「三成の忍城攻め」の最後にこう書かれています。

 結果的に水攻めは、忍城に直接的なダメージを与えられず、忍城戦記、三成記などの後世の軍記物では失敗したとされています。

 

日本三代水攻めの中でも、石田堤は「失敗の記録」ということでしょうか。

 

のちに大規模干拓にその技術が生かされていくというのも、また気が遠くなる話ですね。

 

 

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