今年は渋谷駅前に人が集まらないように区が呼びかけたことに安堵しました。
ここ何年か、その数日ぐらい前から井の頭線と銀座線を結ぶコンコースは目張りがされて、外の風景が見えないようになります。手もかかるでしょうし、歩いていても鬱陶しい変化でしたからね。
例の「東京グッドマナー」でしょうか、誰かが「発信」したかのかいつの間にかあのコンコースが有名な場所になったようで、ガラス窓の向こうの一斉に交差点を渡る人を眺める外国人観光客の姿を目にするようになりました。
それでも最初の頃は一人二人といった感じが、最近では朝から晩までコンコースの窓にはスマホを向ける人が鈴なりにいます。
あの通路は通勤や通学など生活のために一日中相当数の人が移動するので、整然とした流れを作っていたのですが、集団の観光客が増えたからでしょうか、好きなところで好きなように立ち止まる人たちが増えたので流れが滞ることがしばしば感じられるようになりました。
いろいろな思いがあって日本を訪ねてこられたのですから充実した時間を過ごしていただけたらと思う反面、こちらの生活も何かと影響を受けると心に余裕がなくなりそうです。
*人混みと危険な雑踏の違い*
渋谷の街は人混みが代名詞のようになりましたが、けっこうそこには歩く人の自然な秩序があります。
それとともに身の危険を感じたら別のルートで歩くことが可能です。
「身の危険」というのは圧死するほどの混雑だとか、犯罪になるような行為が容易に発生しそうな雰囲気ですね。
不特定多数の人が集まるのですから、たとえ仮装の下は良い人でもそんなことはわかりませんし、熱狂すると何をするかわからない人間の怖さがあります。
さらに、路上でお酒を飲むことができる街だと世界中から人が集まってくるのですから、本当に危機遺産ならぬ危険遺産に渋谷の街がなってしまったようです。
1970年代終わりの頃から、渋谷のあの坂道がつくり出した街の中をあちこち歩いて、たくさんの小さな個性的なお店を歩いた記憶がいつも思い出されます。
周辺はまだ1960年代の雰囲気が残る中で新しい都会を造りだす活気とほどよい人混みがある街でした。
駅周辺は帰り道にふらりとよって食品や日用品を買える場所がたくさんあって、都会でもあり庶民の生活の場でもある。若者の街のイメージは限られた場所で、さまざまな年代の人が生活の中で行き交う街でした。
発信するという言葉が苦手だと感じていたのですが、最近また別の理由があることが見えてきました。
勝手に発信されて生活に影響が出ても、その人は何も責任をとってくれないからですね。
渋谷の人混みが危険な雑踏になったのは、この10年ほどだと。
誰かが「渋谷」を紹介すると、国内だけでなく世界中からわらわらと人が集まってくる。
ほんとうに怖いなあと思いながら、危険を避けるように歩くこのごろです。
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