水の神様を訪ねる 90 高梁川河口の「流域の民を守る」八幡山

倉敷駅北口から14時発の水江循環というコミュニティバスに乗り、いよいよ5年ぶりの東西用水酒津樋門を訪ねます。

西酒津バス停で下車し西へ200mほど住宅街を歩くと、そこに2列の水路が流れていてそのすぐそばの土手の向こうは高梁川です。

 

ここから700~800mほど上流に東西用水酒津樋門がありますが、その少し手前にある八幡神社に寄ってみようと思いました。

 

右手の水田には青々した稲穂が良い香りを放っています。

2列の水路には柵はなく、浅いのですがそばによるとちょっと足がすくみそうな水量であることがわかります。ところどころ石の橋がかかり、また干拓地と同じく水路の上を利用したゴミ置き場があり、周辺にはゴミ一つ落ちていません。

水路沿いにいちじくが植えられていて、青い実がだいぶ大きくなっていました。祖父の水田に戻ってきた気持ちになる植物です。

 

庭先に、ツルボが咲いていました。やはり岡山でも咲いているのですね。なぜ母はツルボを知らなかったのでしょう。

 

 

*川嶋ノ宮八幡宮

 

 

酒津樋門公園の森が近づき、その手前に八幡神社の鎮守の森がありました。

立派な石垣に囲まれた境内の奥に、やや黒みがかった灰色の大きな瓦屋根と黒っぽい木の社殿がありました。

 

参道の手前に「略記」があり、川嶋ノ宮という名前の八幡神社のようです。

 

川嶋ノ宮八幡神社略記

 

由緒

高梁川の河口を扼す川嶋(日本書記)の最高峰八幡山は流域の民を守る神体山として竜神信仰に始まり、次いで多産豊穣を象徴する比売神(ひめがみ)信仰に移行した最古の信仰形態を伝えて来た。境内社の火の神(火之迦具土神、ひのかぐつちのかみ)や治水・農耕植林の神(建速須佐之男命、たけはやすさのをのみこと)も古くから祀られたものと思われる。天暦元年(九四七)宇佐八幡同二年宗像三神を勧請しているが、倭建命(やまとたけるのみこと)ー仲哀(ちゅうあい)天皇ー神功(じんぐう)皇后ー応神天皇仁徳天皇と四代五柱の神を祀り、同時に海神信仰を強めると云う特徴ある祭が加えられている。これは天慶四年(九四一)備中守小野好古が追補吏長官となって藤原純友の乱を平定した記念に神への感謝とこの地方の平安への祈りを込めて関係者が祀ったと看られる川嶋には古墳群・県守渕跡(日本書記)青江鍛治の井戸・戦国時代の砦址等各時代の遺跡が多数見られる。

(ふりがなは引用者による)

 

「明治四年の大政官布告による上地(あげち)迄は八幡山全体が神体山として護持されてきた」とありますが、境内がある場所は周囲より少し高いだけなので、酒津樋門の北側にある山が八幡山でしょうか。

 

日本書紀が書かれた奈良時代であれば「吉備の穴海」で小干拓が始まった頃のようですから、この酒津のあたりはまだ海だったのでしょうか。

 

高梁川の河口を扼す」。

「扼す」というのはしめつけるとか強く抑えるという意味があるようですが、このあたりの両側が山に囲まれたあたりが古来は高梁川の河口であったということでしょうか。

 

 

以降、干拓によって河口が少しずつ遠浅の海へと移り、何度も繰り返される洪水のため明治期に大きな「つ」の字に流れを変え、現在では河口まで約10kmほど離れています。

 

2018年7月、高梁川小田川の合流部で起きた洪水で初めて知った「バックウオーター」ですが、かつてこの辺りが河口だった頃は両側の山に阻まれた川の水が上流へ向かって戻っていったのではないかと、ちょっと恐ろしい洪水の様子を妄想しました。

 

 

 

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