水のあれこれ 332 高梁川改修工事のきっかけとなった明治時代の水害

高梁川の改修工事と東西用水酒津樋門ができるきっかけともいえる明治時代の水害について検索すると、倉敷市のホームページに「倉敷市域の災害に関する歴史資料」の中に詳細がありました。

 

高梁川の改修工事のきっかけとなった水害*

 

酒津樋門にあった石碑3つの水害が記されていましたが、それぞれ水害の性質も規模も異なるようです。

 

明治13年の水害

明治13年(1880)7月1日、梅雨時の豪雨により岡山県内各地で水害が発生し、罹災者は県下全体で3万6174人、溺死者は70人にのぼりました。とりわけ高梁川は、総社と川辺の間で右岸・左岸とも各所で決壊し(28日に再決壊)、下道郡と窪屋郡(北部)の被害は特に甚大でした。嘉永3年や明治2年に決壊した東高梁川の四十瀬付近の堤防は、必死の防御工作によりかろうじて破堤をまぬがれました。この水害は人びとに大きな衝撃を与え、これをきっかけとして岡山県ではさまざまな治水対策が講じられてゆくことになります。

ここに紹介する3点の資料以外に、窪屋郡長として事に当たった倉敷村の林孚一が書き残した記録、水害の要因となる川底への土砂の堆積を防ぐためには何より治山が大切であることを説いた宇野円三郎の意見書などは、このウエブサイトの「災害関連講演資料」の「明治13年高梁川水害について」の項目に要約を載せていますので、あわせてご参照ください。

 

この4年後は高潮による被害だったようです。

明治17年の高潮

明治17年(1884)8月25日(旧暦7月5日)の昼過ぎから夕方にかけ、九州方面から接近してきた台風の影響で、水島灘沿岸地域に雨交じりの東南の風が起こりました。夜に入ると風は猛烈さを加え、日付けの変わる午前0時前後に台風の目が高梁川河口付近(倉敷市水島地区)を通過、風向きが南西に変化して水島灘海上から児島半島西岸に向かって暴風が吹きつけました。当時、台風による気圧低下の影響で水島灘の潮位は高く膨張しており、暴風にあおられた海面は激浪となって福田新田5カ村(南畝・北畝・中畝・東塚・松江村。倉敷市北畝・中畝・南畝・東塚・松江付近)を囲む防潮堤を破壊し、高潮が5カ村を呑み込みます。深夜の出来事で備えもなく、多くの住民が家ごと波にさらわれ、福田新田5カ村だけで536人もの人命が犠牲になりました(福田大海嘯。犠牲者数は諸説あり)。高潮は同時に連島・亀田新田村(倉敷市連島町連島・連島町矢柄・連島町亀田新田・亀島などを含む一帯)、乙島村・柏島村・勇崎村・黒崎村(倉敷市玉島乙島・玉島柏島・玉島勇崎・玉島黒崎)などにも押し寄せて住民を死傷させ、家屋・塩田・綿花栽培地を押し流し、人々の生活や産業に大きな被害を及ぼしました。最大の被害が生じた福田新田では、被災地救援のため隣接地の福田古新田村(倉敷市福田町古新田)に児島郡役所の仮出張所が設けられ、周辺の村々から人夫が集められて被災家屋・道具類の片付けと行方不明者・遺体の捜索が行われています。死亡が確認された546人のうち身元不明の256人の遺体は被災地を見下ろす広江(倉敷市広江)の丘上に埋葬され、後世に長く高潮被害の惨状を伝えるため、「千人塚」と呼ばれる供養施設が設けられました。

 

現在の水島工業地帯のあたりが水島灘で、2020年に歩いたかつて島々だった干拓地と今回児島駅からバスで通った水島工業地帯、そして福田新田のあたりまで高梁川河口両岸の広範囲に被害があったようです。

 

そして「未曾有の惨害」と石碑に記録されていた水害です。

明治26年の水害

明治26年(1893)10月14日、台風に刺激された秋雨前線の活発化により、数日前から雨が降り続き、高梁川をはじめとする岡山県内河川の水位が上昇しました。中国山地で盛んだった「カンナ流し」(砂鉄採取)の影響でかねてから河床に土砂が堆積し流水に支障を生じていた高梁川は水位膨張に耐えられず、14日晩から翌日にかけて氾濫し、各所で堤防決壊・越水による大洪水を引き起こしました。この水害により川辺村(倉敷市真備町川辺)は壊滅的な被害を受け、集落のほとんどの家屋が流失または倒壊、54人の住民が溺死しました。

当時の高梁川は川辺村の南方で東西2本に分かれて流下していましたが、東高梁川右岸の酒津村一ノ口堤防(倉敷市酒津)・西高梁川左岸の古水江堤防(倉敷市水江)も大きく決壊し、東西高梁川に囲まれた中洲状の地勢に立地する甲内村(倉敷市片倉町・西阿知郡西原)・西阿知村(倉敷市西阿知町・西阿知町新田)・中洲村(倉敷市酒津・水江・中島)のほぼ全域が水没しました。この時、西高梁川右岸の又串堤防も決壊して船穂村(倉敷市船穂町船穂・船穂町水江・柳井原)が激流に呑まれ、破壊された家屋や住民を乗せた溢水が玉島村(倉敷市玉島1丁目〜3丁目・上成)の市街地に押し寄せて大きな被害を出しました。東高梁川左岸は大きな被害をまぬがれたものの、倉敷川・吉岡川などの堤防が決壊し粒江村(倉敷市粒江・黒石・粒浦・八軒屋・東粒浦)が床下浸水の被害に遭っています。被害にあった流域各地域では住民が瀬戸内海まで流され、船舶や島嶼部の人々に救助されたと伝わっています。岡山県内全体で溺死者423人・流潰家屋6240戸もの被害を出したこの水害は、近代に入って高梁川が引き起こした水害としても最大規模のもので、高梁川付替え・一本化をともなう本格的治水工事が始動するきっかけともなりました。

(強調は引用者による)

 

 

幼少の頃から今に至るまで半世紀以上、倉敷で甚大な水害が起きた記憶がないのは、一世紀前の治水工事によるものだったのでした。

 

そして2018年に知った高梁川の歴史ですが、実際に歩くことで少しずつ理解できるようになりました。

 

 

*おまけ*

 

倉敷市に「歴史資料準備室」があることを初めて知りました。

 

こうした過去の記録を保管し寝ずの番でのデーター収集と監視と整備によって生活が守られているのだと改めて思います。

医療でいえば対象の観察と症例報告であり、さらに科学的な手法での検証とリスクマネージメントにより現実の問題解決を図るという感じですね。

 

 

 

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