生活のあれこれ 37 「霞堤」や放水路のそばでの生活

昨年10月に豊川と牟呂用水そして豊川用水を訪ねた記録を書いていて、愛知県のホームページの「今日は、とよがわ日和」という「お話アーカイブ」を知りました。

豊川水系対策本部事務局とあります。

 

治水や利水は「反対運動」といった対立に視点が置かれたニュースが多かった時代から、「市民の思い」「専門家の思い」「行政の思い」を記録しながら葛藤に対応していく時代になったと言えるのかもしれませんね。

 

その中で「霞堤(かすみてい)と豊川放水路のお話」(2022年7月6日)があります。

少しそばを歩いただけではわからなかった豊川(とよがわ)のそばでの生活が書かれていました。

今回の散歩でやり残した宿題がまた増えたので、再訪の日のために書き写しておこうと思います。

 

19 霞堤(かすみてい)と豊川放水路のお話し

 

 子どもの時分、飯田線でのお出掛けは、小坂井を出て大きな川をふたつ渡ると豊橋だというふうに記憶していました。

 そのふたつの川の名前は、豊川と「豊川放水路」。

 豊川はもちろんのこと、「豊川放水路」も、そういう名前の天然の川なのだと、何の疑問も持っていませんでした。

 それは、いつも飯田線国道1号から見る「豊川放水路」の河口部には、はるか上流から多くの水を運んできたと誤解するのに十分な水量があるからでした。

 

 豊川流域では、昔から幾度となく繰り返される河川の氾濫に対して、「霞堤(かすみてい)」と呼ばれる伝統的なシステムで集落を守ってきました。

 これは、先人が洪水の被害に遭いながらも、豊川という川の特性を理解することで形作られた、豊川と共存するための知恵の結晶といえるものです。

 

 通常、私たちが想像する堤防は、周辺地域に水を侵入させないよう、川筋に沿って堅牢な土手を配置するものですが、「霞堤」は堤防が連続せず、途中、その一部がきれていて、河川氾濫時にはそこから意図的に遊水池に水を招き入れることによって、集落への被害を軽減する仕組みになっています。

 この堤防が途切れた部分は「差し口」と呼ばれ、川筋がカーブする堤防の決壊しやすい箇所に、水がぶつかるのと反対側の河岸に上流側に向けて設けられます。このため、「差し口」から遊水地への水の侵入は比較的穏やかなものとなります。

 なお、浸水被害を受ける一方で、遊水地となった畑地には、洪水に運ばれて上流から栄養素が流れ込んでくるというプラスの側面もあったようです。

 

 また、浸水被害の多い集落では、土盛りによって家屋の土台部分を嵩上げしたり、周囲を生垣で囲んで浸水時のゴミの流入を防いだりと様々な工夫がなされました。

 家の内部についても、浸水しやすい一階は畳ではなく板張りとし、家財をすぐ二階へ運べるような設備を設けるとともに、最終的な避難のために、軒下には小舟が吊るされていたとのことです。

 

 豊川とともに生きる先人の苦労とそれを知恵で乗り越えようとする姿に改めて頭が下がる思いです。

 

 時代は進んで、1965年(昭和40年)7月、着工以来27年の歳月を経て「豊川放水路」が完成します。

 

 豊川は下流に向けて大きく蛇行しているため、出水時に水が流れにくく、これが河川氾濫のひとつの大きな要因となっていました。

 そこで、考えられたのが、豊川の下流部に川をもう一本作ることで、出水時にはふたつの川によって水を海へ流そうという壮大なプロジェクトでした。

 「豊川放水路」の完成により、出水時には、その40%程度が「豊川放水路」を経由して海に流れることとなり、豊川の治水は劇的に進展しました。

 

 豊川と「豊川放水路」との分流堰(ぶんりゅうぜき)は、豊川市行明町(ぎょうめいちょう)にあり、隣接する分流堰管理所でゲートの操作が行われています。

 出水によって分流堰のゲートが開かれ「豊川放水路」に水が流されるのは、年間概ね4~5回、多い年で8回程度だということです。

 それを知って、今更ながらに気づかされたのは、いつも見る「豊川放水路」河口部の流水は、山からのものではなく海からのものだったということでした。

 

 「豊川放水路」と河川改修によって、豊川右岸側*に5つ、左岸側に4つあった「霞堤」のうち、右岸側の5つが締め切られました。しかし、依然として左岸側に4つの「霞堤」が残されていることから、国・県・関係市により。引き続き浸水被害軽減の対策が進められています。

*上流から下流に向かって右側が右岸、左側が左岸

 

(以下、略)

 

子どもの頃は「ふたつの川」と思っていらっしゃたり、放水路の役目とか霞堤の地域のこととか、地元の方でも日頃恩恵を受けているインフラの歴史やその地域での生活を知る機会はなかなかないですものね。

 

その「知らないこと」と「知っていること」あるいは「わからないこと」と「わかっていること」の間を埋めていくための、専門知識と生活の間を埋めていくとでもいうのでしょうか、こうした先人の記録、しかも文学的表現に頼らない記録が各地の自治体にも急激に増えてきました。

 

「今日は、とよがわ日和」はサブタイトルが「さあ、水源の里へ出かけましょう」とあって、豊川周辺の生活が書かれています。

また歩いてみたいものですね。

 

 

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