森の上に大きな黒い屋根と金色の鴟尾だけ見えた東大寺本堂は全周をぐるりと壁で囲まれていて、その前に三笠山の方から流れてきた水を湛えた鏡池がありました。山の方へと緩やかな斜面になっています。
ふと獣の匂いが漂ってきて視線を感じました。本堂と溜池の関係にばかり気を取られていたので、よくよくみたらたくさんの鹿が静かに寝そべっていました。
東大寺の関係者と思われる方が2~3人出入りしているほか、周囲には数人の観光客がいるだけでした。
9時の開場前でしたがすでに20人くらいの参拝客が本堂に入っているようでした。敷地内も静寂で、ちょうど朝の読経の時間のようで低い声が本堂内に響いていました。
目の前の大仏様と周囲の仏像そして柱をくり抜いた穴は、四十数年以上前の中学生の頃にみたままです。
あの時はただ大きさに圧倒されて記憶に残ったのだと思うのですが、不思議と1987年にアメリカの友人と東大寺を訪ねた時の記憶はありません。たぶん、お水取りの行事とそのあと日本には春が来ると説明したのではないかとは思いますが。
3回目の今回は、ちょうど前夜に最後の達陀(だったん)を終えた日でした。
大仏様の足元の高い場所に10人ぐらいでしょうか、お坊さんが座って読経をあげている様子に急にさまざまな思いが溢れてきて不覚にも涙が止まらなくなりました。
読経が終わるまで、本堂内にある椅子に座って聴き入りました。
二月堂本尊の十一面観音を祀る懺悔祈祷の厳行であり、(天平勝宝4年/752年)、良弁(ろうべん)の高弟実忠(じっちゅう)によってはじめられたと伝えられている。お水取りの通称は、東大寺領であった若狭の荘園から水を運搬して来たことに由来する。古代には、天災や反乱などの国家的な災いは「国家の病気」によるものと考えられ、その病気を取り除く十一面悔過は国家的な宗教行事であり、「不退の行法」として引き継がれ、戦時中なども一度も中止されることなく行われ、令和5年で1272回目となる。
(Wikipedia「お水取り」より、強調は引用者による)
春を呼び寄せるための宗教行事ではなく、「国家的な災いは『国家の病気』によるものと考えられ、その病気を取り除く」という考え方があったを知ったのも、行基さんが生きた時代と現代のあれやこれやが重なったからでした。
状況こそ違っても1272年にわたって「国家の病気」を憂い、状況が良くなるようにと祈り続けることが行われてきたことは、正義感や善意が正しい祈りというわけでもなく社会はさまざまな思いで混沌とし、未曾有の事態に、日常生活を送ることがどんなに得難いことなのかを知って初めて理解できる祈りとでもいうのでしょうか、人間とは何かの葛藤への忍耐だったのかもしれませんね。
そしてその答えは未だない。
僧の後ろ姿が父と重なりました。
なんだかすごいなあと思いながら、本堂をあとにして二月堂へと向かいました。
*行基堂から二月堂へ*
過去2回東大寺を訪ねた時には平地にあったような気がしていましたが、溜池があることからその地形を近頃では地図から読み取れるようになりました。
きっとお水取りが行われる二月堂は山裾の高い場所へと上っていくのでしょう。そして東大寺の敷地というのは二月堂の方へ向かってさまざまなお堂や神社があることをこの2年で知りました。
朝からちょっとしたハイキングになりそうです。
途中に行基堂もあります。
石段を上って大きな鐘楼のそばに質素な作りのお堂があり、静かに鹿たちが休んでいました。
途中から、観光客が増え始めました。朝まだ9時半なのにすごいなと思いながら二月堂に入ると、NHKの取材スタッフがいました。昨夜でお水取りの修行がおわったことも放送されるのでしょうか。
初めて二月堂に上がってみました。広々と大和平野が一望できます。
昨日はあの反対側の山裾を吉野川分水西部幹線水路を訪ねて歩いたのでした。
ぐるりと二月堂を一周して戻ってきたら、先ほどの場所にたくさんの人が集まっていました。
お水取りが終わる時にお祓いの儀式があるそうで、そのための取材だったようです。
小さなお子さんを連れた家族がインタビューを受けていました。観光客というよりも地元の方達の方が多いのかもしれません。
あの幼児も小さい頃は「お水取りが終わると春がくる」の認識でも、年を重ねて時代を経るにつれて国の災いを憂い、この行事の意味を知ることになるのかもしれませんね。
なんだか奈良の生活はかなわないなと圧倒されながら、坂道を下りました。
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