行間を読む 210 「将軍池と加藤山の由来」

以前は地図になかったと思われる池の柵のこちら側に説明板がありました。

 

将軍池と加藤山の由来

 

 この池と築山(つきやま)は、都立松沢病院(大正八年に、東京府巣鴨病院が旧東京府小石川区巣鴨駕籠町からこの地に移転し、東京府立松澤病院となりました。)の第五代院長呉秀三(くれしゅうぞう)のもと、加藤普佐次郎医師、前田則三看護師及び多くの患者によって、屋外作業療法の一環として造られたものです。

 大正十年七月から造園作業に着手し、翌年には約八割の工事を終えましたが、完成間近の大正十二年九月一日の関東大震災により、築山は、当初の富士山型が崩れ、現在のなだらかな形になりました。

 その後、造園作業は再開され、園芸家堀切三郎の指導により、あずまやを配置するなどして、大正十五年に完成しました。

 この将軍池と加藤山は、原田次郎の英文の著書「日本の庭園」JAPANESE GARDENSによって、精神障がい者の造ったすばらしい庭園として広く世界に紹介されました。

 将軍池の名は、作業に参加した患者で自称「将軍」葦原金次郎にちなんだものです。また、加藤山の名は作業を指導した加藤普佐次郎に由来しています。

 「注意」

 将軍池と加藤山の周囲は病院の敷地のため、立入りはできません。

       東京都立松沢病院

 

 

90年代ごろから何度も近くを通ったのにその存在さえ知らなかった将軍池の歴史がわかりました。そして「精神障がい者」とひらがな表記が使われているので、この案内板も2000年代半ばあたり以降のものだと、後世ではわかることでしょう。

 

それにしても一世紀もまえに患者さんのあだ名が名前になったということに、私の知らない精神科医療の歴史を感じました。

そして偶然にも、水辺を感じる「葦原さん」だったというのもいいですね。

 

 

*半世紀前には想像もしなかった精神科医療だが、一世紀まえにつながっている*

 

私が看護学生だった1970年代終わり頃の精神科病棟というと、人里離れた場所にある閉鎖病棟というイメージでしたが、次々に精神科疾患の概念が移り変わり、街中のあちこちに精神科・心療内科などを見かけるようになるとは想像もつきませんでした。

 

ましてや自分の家族が認知症としてその閉鎖病棟で生活をするようになるとは。

ところがその中はあんがいと質素でいながら贅沢な空間で、「閉鎖病棟」のイメージとも違う、同じ認知症の方々の生活の秩序もありました。

 

父の終の住処となった認知症専門病院はその人の尊厳を守り、家族もまた面会に行こうという気持ちになるような配慮がなされていて、おかげで私も父との長い葛藤を超えて反応がなくなってもその存在が奇跡なのだと受け止めらたのでした。

 

将軍池の説明板にあった「呉秀三」は、看護学生の時に習ったのだと思うのですが記憶にある名前です。

改めてその人となりを読んで、明治時代にこうした人たちが精神科を変えて行ったことで、現在があるのだと繋がってきました。

 

 

「幸齢社会」なんて現実の問題から目をそらせるふわりとした言葉を使わなくても、確実に世の中は変わっているのですね。

 

柵越しに遊ぶ親子を、きっと作業療法で池の周りを歩く患者さんは見ていることでしょう。

さて、どちらが柵の内側か外側か。

そんな禅問答のようなことを考えました。

 

 

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