水の神様を訪ねる 100 米原の湯谷神社

3月中旬、5時過ぎに自宅を出た時には気温5度でしたが、体が慣れたのでちっとも寒くありません。それでも息が白くなる中、5時台の山手線は出勤の人で混んでいました。皆さん、どんなお仕事に向かうのでしょう。

 

品川駅6時28分発のひかり631号が入線してきました。屋根の上が真っ白なので新しい車両だと思ったら電源コンセントが窓側だけでした。あれほどピカピカに洗浄する技術があるのでしょうか。

そうそう、今日から東海道新幹線は喫煙ルームが廃止です。

1月の遠出は、新大阪駅まで30分おきぐらいにタバコを吸いに行く人がお隣の席でした。

 

2月に歩いた大井川用水や天竜川両岸の水路そして湖西用水のあたりを見逃さないようにと車窓の風景に集中していると、あっという間に矢作川になり、三河安城のあたりまで麦畑の風景になりました。

2022年11月頃はまだ川の途中までだった木曽川の橋が、今回とうとうつながっていました。県境は橋が少ないので便利になりそうですね。是非渡ってみたいものです。

鈴鹿山脈が近づくともうじきです。8時42分に米原駅に到着しました。

 

米原湊*

 

米原駅の東口は初めてです。広いロータリーの向こうに住宅地が見え、そのすぐそばに山が迫っています。

 

ふと駅前の小さな説明板が目に入りました。

米原湊跡

 米原湊は、ここ米原駅付近にありました。

 慶長8年(1603)、北村源十郎が琵琶湖と入江内湖を結び、堀を開削して湊を開きました。美濃方面の物資や人を大津湊へ運ぶ中継、また京・大阪と北陸を結ぶ湖上交通の中継の湊で、宿場としても栄えました。

 天保14年(1843)には、丸子船30、押切早船7、艜船(ひらたふね)15と米原湊で開発された車早船があり、明治始めには蒸気船も運航していましたが、鉄道の開通によりその役目を終えました。

 

案内板にある「米原湊絵図」を見ると、かつてはすぐそばまで琵琶湖だったようで、この辺りが琵琶湖との境界ではないかという疑問に、駅で降り立ってすぐに答えが見つかりました。

 

*湯谷神社へ*

 

駅前の国道8号線を渡ると、静かな住宅地です。

すぐに上り坂になり、目指す湯谷神社の参道になりました。ここを訪ねようと思ったのは地図でその境内に池が描かれていたからで、醒ヶ井(さめがい)のように湧水が豊富な場所だろうと想像していました。

あの地蔵川周辺のようにあちこちから水音が聞こえるかと思ったら、水路もなく静かです。

 

鳥居の向こうには鎮守の森というよりは森そのものの鬱蒼とした場所が広がり、その中にお社がありました。たしかに大きな池がありましたが、想像していた水がこんこんと湧き出るという感じでもなく、静かな水面でした。

 

湯谷神社由緒

由来

古へは六所権現社と称せり。上古出雲之国人諸国を巡視して此の山谷に至り、里民をして地を穿たしめしに、霊泉忽ち湧出せり。されば蘆荻(ろてき)雑草の叢生せる荒地を拓き、五穀の種を植へしに美稲豊熟す。是れ祖神大己貴神(おおなむち)の霊験なりと大いに歓喜し、山谷の岩上(岩倉)に祠を建て奉斎す。温泉滾々(こんこん)として湧出して、病者一度浴すれば諸病忽ち快癒せしと称し今に尊敬者多し。後 保食神(うけもちのかみ) 水門神(みなとのかみ)を合祀す。

 

湧水があったのではなく、掘ったことで湧出したのですね。そして温泉も出たのでしょうか。

「美稲豊熟す」これが、米原の由来に関わるのでしょうか。

 

鬱蒼とした森の中の池を眺めていたら、人の気配がしました。

地元の女性でしょうか、二人連れで参拝にいらしていました。あちこちを散歩するようになって、小さな神社でもほぼ必ずと言っていいほど参拝に立ち寄る方と出会います。

私にすると既存の宗教との距離に葛藤していた半世紀でしたが、同じ時代だったはずの半世紀は何が違ったのでしょう。

 

それにしても米原駅に到着してわずかまだ半時間ほどだというのに、何か満ち足りた思いで参道を下りました。

屋根の向こうに、東海道新幹線が通過していくのが見えました。

車窓から見ていた米原駅そばの山の中、こんな静かな神社があったのでした。

 

 

 

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