米のあれこれ 87 入江干拓と入植五十周年記念碑

湯谷神社から次の目的地まで、山裾沿いの細い道を歩いてみました。苔むすような石段や石垣があり灰色の屋根に渋めの朱色の壁や柱がはっとするような古い住宅地が現れ、その屋根の向こうに新幹線が通過していくのが見えました。

ゆるやかに蛇行しながら続く細い道の両脇にある古い家屋に、「米原市景観条例により指定された景観形成建造物です」という標識がありました。

あの車窓から見えた東側に、こんなに落ち着いた街並みがあったとは。

 

なんだか幻のような街並みを歩いているとまた国道8号線にぶつかり、その向こうは広大は平地が広がって、新幹線の東側には工場が、そして西側には干拓地が広がっています。

 

 

*新幹線高速試験車両保存場*

 

2020年に米原市立琵琶湖干拓資料館を訪ねたときに、いつか干拓地をもっと歩いてみたいと思っていました。

 

そこを訪ねる前に、今回はもう一箇所、目的があります。

新幹線の線路へと近づくと小さな公園があり、その向こうに車窓から見えていた旧型の新幹線の車両が展示されている場所があります。「新幹線高速試験車両保存場」で、中には入れないのですがそばを歩くことができました。

鉄道総合技術研究所 風洞技術センター」とありました。

 

新幹線の安全を支え、安全を追求するために、「風洞技術」というものがあるのですね。ほんとうに知らないことばかりです。

 

 

*水路のそばの入江神社へ*

 

ここから近江鉄道とJR在来線の線路を超えるための長い地下道を歩きました。

もうすぐ出口というところで新幹線の高架橋が見え、その高架橋の向こうに琵琶湖までの広大な干拓地が見えるダイナミックな風景でした。

米原駅周辺では、線路を境に東側と西側の風景がガラリと変わりますね。

 

幹線水路らしい大きな水路を渡り、その水路沿いに干拓地を歩きました。

水路と田んぼの風景、沿道にはさまざまな春の花が咲き、水鳥がゆったりと泳いでいます。そしてそばを何本も東海道新幹線が通過していくという、一日中でもここにいたい風景です。

この辺りは一毛作でしょうか。田んぼは昨年の稲刈りが終わった後のままのようです。

 

水路が大きくコの字に曲がると、目指す鎮守の森が見えてきました。

 

 

*「入植五十周年記念碑」*

 

てっきり水路のそばの道が入江神社の参道だと思って境内へ入ると、お社の裏手でした。

西側の水田地帯の方が参道だったようです。

 

御由緒はなかったのですが、そばに黒っぽい石碑がありました。

入植五十周年記念碑

 此の入江干拓は昭和十九年着工し六ヶ年の歳月と学徒動員等延べ五十万人の奉仕と多大の魚介類の犠牲により完成なりしことを忘れるものでない。入植者百有余名は戦後の食糧増産の使命を担ひ鋤一本にて営農に賭けてきた。然るに二十八年十三号台風三十四年伊勢湾台風の災禍被り堤防決壊の為人畜一時疎開し美田の水没半月に及びしこともあり、之等に耐え且干拓行政及近隣の援助等に依り今日迄営農を継続する事を得た。茲に五十周年を迎ふるに当り同志相諮り入江神社境内に碑を建立し永く後世に伝うるものである。

平成十年三月吉日

 

ここもまた伊勢湾台風の被害を受けた場所だったようです。

 

わずか数行の内容ですが、その行間にはなんと深い歴史があることでしょう。

 

「多大の魚介類の犠牲により完成なりしことを忘れるものではない」

あの奈良駅前のため池の埋め立てのために犠牲になった「萬物之霊」を思い出しました。

 

古文のような文体ですが平成10年ということは1998年ですから、片やそれまでの反省から「環境に配慮する」という意識が広がった時代でもあり、片や他人の存在よりは「自分が大事」「自分はすばらしい」という方向へ大きく変化した時代でもありました。

 

1948年(昭和23)琵琶湖沿岸に美田が生み出された頃からじきに、タンパク質が足りない時代からお米にも栄養にも不自由しない時代へ、爆発的に増えた人口のお腹を満たし誰もが経済的に豊かさを求められる時代へ、さらに「自己実現」へと驚異的に変化していったのだと思い返しました。

 

 

美田のそばには1964年(昭和39)に東海道新幹線が通るようになったのですが、当時の風景や生活はどんな感じだったのでしょう。

用水路のそばの誰もいない鎮守の森の中で、ひとりめまいのような気持ちで石碑の前にしばらく立っていると、木々の間をまた真っ白に青の車体が静かにあっという間に通過していきました。

 

 

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