4年前に信濃川から千曲川を飯山線の車窓から眺めた時に、信濃川・千曲川本流は急峻で水量の多い流れというイメージとは違っていたのが印象に残っていました。
今回は上流から下流へと4年前とは逆の方向で眺めたのに、やはりどちらに流れているのか混乱するほどの穏やかな川面で、私の記憶はそれほど間違っていなかったことがわかりました。
沿線の勾配も緩やかに見えたので、それも理由の一つでしょうか。
途中、車窓から見えた西大滝ダムは一見、農業用水の堰かと思うほど堤高が低かったのですが、帰宅してWikipediaを読み信濃川の発電に重要な場所だったことを知りました。
西大滝ダム(にしおおたきダム)は、長野県飯山市と下高井郡野沢温泉村との境、信濃川水系千曲川(長野県内における信濃川の呼称)に建設されたダム。高さ14.2メートルの重力式コンクリートダム(堰)で、東京電力リニューアブルパワーの発電用ダムである。同社の水力発電所・信濃川発電所に送水し、最大17万7,200キロワットの電力を発生する。
大正時代から支流に多くの水力発電所が建設され、本流の開発は戦争へと向かう時代だったようです。
転機となったのは1931年(昭和6年)の満州事変であった。事業を引き継いだ東京電燈は、軍需産業を主とする経済の立ち上がりによって電力需要が増加すると予想。1936年(昭和11年)、工費7,800万円を持って発電所建設工事に着手し、1939年(昭和14年)11月24日に第一期建設工事を完了。11月29日に通電式は行われ、計画された5台の水車発電機農地1~3号機の3台9万2,000キロワットが稼働を開始し、同社の予想通り電力不足に陥っていた首都圏に向けて送電が開始された。
*首都圏鉄道網に大事なダム*
この西大滝ダムの下流もまたゆったりと流れる信濃川なのですが、越後田沢駅から水沢駅の間、車窓からは広大で整然とした水田が見えました。
この大滝ダムの説明を読んで、ああここが1990年代ごろに耳にしたダムがある場所だったのだと繋がりました。
不思議な地形で「川に向かい高くなる」とメモしていたのは、ダムに適した場所だったからでしょうか。
以前、信濃川左岸の取水堰から太い水色の貯水地のような用水路のような場所が描かれているのに気づいたのですが、てっきり農業用水だと思っていました。
信濃川発電所の完成を控えた1938年(昭和13年)、その下流部において旧鉄道省(後の国鉄、現在のJR東日本)により首都圏鉄道網への送電を目的に千手(せんじゅ)発電所および宮中取水ダムが完成している。
(Wikipedia「西大滝ダム」「歴史」)
Wikipediaの「宮中取水ダム」によると、「首都圏の大動脈である山手線・中央線などの運転に必要な電力の約23%(パーセント)を生み出している」と書かれています。
90年代にそのことを知り、以来、山手線の送電トラブルなどのニュースがあるたびに、どこだかわからないけれど「信濃川から送られてくる電気」を思い出していました。
*かつてはどれだけの水量だったのだろう*
Wikipediaの「西大滝ダム」に、かつてはサケが遡上していたことが書かれていました。
宮中取水ダムや西大滝ダムが完成する以前の信濃川は、水産資源が豊富でサケの漁獲量は1万8千~4万尾が記録として残っている。しかしダム建設によってサケの遡上(そじょう)が困難となった。流域の漁民との間では補償交渉が持たれ、最終的に補償額が43万円(当時)支払われダムに魚道が設置された。とは言え、補償交渉が妥結したのはダム完成から2年が経過した1941年(昭和16年)であり、また魚道におけるサケの密漁もあって遡上数は減少、サケ漁は一挙に衰退し1940年(昭和15年)には終焉を迎えた。
ダムができる前の流れはどんな感じだったのだろうと想像したのですが、その70年後に元の水量が一時的に戻ったことがあったようです。
2009年(平成21年)3月に、水利権の取り消しにより全門が開かれ、70年ぶりに信濃川が元通りの水量に復活、ダムの上流に遡上するサケ・アユが大幅に増加した。
(Wikipedia「宮中取水ダム」
この2009年のJR東日本の水利権取り消しについては、なんとなく記憶にあります。
十数年まえに起きたことの意味はなんだったのか、その時の社会の様子はどうだったのか、至近の歴史を追いかけるのは難しいですね。
また一つ宿題ができました。
「70年ぶりに信濃川が元通りの水量に復活」
その時は、飯山線から見える千曲川・信濃川はゆったりした流れではなかったのでしょうか。
ビデオがあれば観てみたいものです。
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