水のあれこれ 464 「私はこれほどまでに荒れ果てた渓谷をみたことがない」

2023年に地図で見つけた庄川用水合口堰堤を訪ねたのですが、この時に初めて「合口堰堤(ごうぐちえんてい)」を知りました。

以来、地図を見ると扇頂部などに造られた頭首工から、両岸に幹線水路が伸びて水田地帯を潤しているこの「合口」の場所がおもしろいほど見えてくるようになり、常願寺川もその一つです。

庄川のほうは1935年(昭和10)の建設ですが、常願寺川は明治時代にデ・レーケが計画したものだということがわかり、いつかこのあたりを歩こうと地図を眺めているうちに、上流のこの立山カルデラ砂防博物館を見つけたのでした。

もしかしたら、デ・レーケの軌跡を知ることができるかもしれないと楽しみにしていました。

 

 

*「立山カルデラを治める」*

 

展示の「立山カルデラを治める」に、「明治・大正時代の考え方」がまとめられていました。

「土砂の対策が必要」と述べる

⚪︎ムルデル

 ローウェンホルスト・ムルデルは明治16年(1883)8月富山県の河川を調査しました。

「常願寺川を無害にするためには強固な障壁としての堤防を川床に築くか、或いは崩壊の近くに川と並行に堤防を築き、土砂の流れを遮るようにしなければならない」と”土砂への対策が常願寺川では必要”とはじめて指摘しました。

ムルデルは1879年に来日し、生死をかけ遠く祖国を離れて日本に技術や知識を伝えようとしたひとりですね。

 

そしてデ・レーケの説明もありました。

土砂の移動を止めるのは経済的に不可能

⚪︎デ・レイケ

 明治24年(1891)の大水害をきっかけに富山に派遣されたヨハニス・デ・レイケは「この川の自然の活動を止める方法はなく、少なくとも経済的に可能な方法はない」と下流河川の大改修工事に力を注ぎました。

(青色強調は引用者による)

 

わずか140年ほど前はようやく「土砂の対策が必要」ということが明らかでも、デ・レーケをもってしても常願寺川の「土砂の移動を止めるのは経済的に不可能」という判断だったようです。

安政5年の大地震と鳶山崩れによる立山カルデラの土砂は、打つ手なしという規模だったのでしょうか。

 

 

*デ・レーケによる「常願寺川の改修」*

 

「土砂を止めるのは経済的に不可能」としつつも、デ・レーケが常願寺川改修を進めたこともまとめられていました。

 

   富山県民のために

「常願寺川の改修」

 常願寺川上流の調査を終え、デ・レイケは「私はこれほどまでに荒れ果てた渓谷をみたことがない」「この自然の活動を止める方法はなく、少なくとも経済的に可能な方法はない」と上流での砂防工事の困難さを理解していました。そのうえで「将来この山間地域で何が起こり得るかを知ることは重要」と富山県民に注意を喚起しています。

 デ・レイケは12月に常願寺川の下流域について大規模な改修計画を立てます。

「用水の合口化」、「霞堤の建設」、「白岩川の分流」です。これらの工事はデ・レイケの指導を受けながら富山県職員・高田雪太郎が仕上げていきました。この工事が現在の常願寺川の原型となっています

(青色強調は引用者による)

 

「白岩川の分流」

地図を眺めていて河口付近で常願寺川と白岩川という二つの川の間がわずか300mほどで水神社があることが気になり、最終日に訪ねる予定だったこととつながりました。

 

*ムルデルとデ・レーケ*

 

展示にはムルデルとデ・レーケの紹介がありました。

オランダ人技師ムルデルとデ・レイケ

 長い鎖国の果てに国を開いた明治政府の目標は、一日も早く欧米の科学技術に追いつき、国を富ます日本の近代化であった。そうした近代化を具体的に道先案内してくれる指導者として招かれたのが「お雇い外国人」と呼ばれた人々だった。

 来日したオランダ人は総勢10人で、ドールン技師長、ムルデル、デ・レイケなどの技師とあとは粗朶(そだ)工、石工などの工手である。彼らの多くは明治5年から14年頃まで在日し、それ以降も残ったのはムルデルとデ・レイケの2人で、滞在年数の最も長かったのはデ・レイケの28年、次いでムルデルの11年だった。

 ムルデルは1883年8月の間、富山県の常願寺川をはじめ、庄川、神通川などを調査し報告書を提出した。その8年後、1891(明治24)年の大水害時には、内務省はデ・レイケを富山に派遣した。その際、8年早く富山県の河川を調査したムルデルの調査報告書が、デ・レイケの常願寺川復旧改修工事計画の原点になったことを窺い知ることができる。

 

大改修のきっかけとなった明治24年の大水害のまとめもありました。

明治24年7月の大水害と常願寺川大改修

 1891年(明治24)7月、北海道中部の低気圧から南西に伸びる前線の通過によって富山県か一部に大雨がもたらされ、17日~21日にで合計128mmの雨量となった。また高山の残雪も溶けて、19日には県兄各河川で洪水が発生した。

 この日の河川の水位は、黒部川(約3.6m 愛本)、常願寺川(約4.8m 町袋)、神通川(約4m 神通橋)、庄川(約3.2m 場所不明)であった。

県内河川の被害は次のように記録されている。

 堤防切所数 606ヶ所(総延長36km) 

 道路破壊所数 328ヶ所(総延長93km)

 流失橋梁数 231ヶ所    破壊橋梁数 71ヶ所

 流失建物数 30戸       破壊戸数 271戸

 溺死人数 16人        罹災人数 12939人

 田畑の流失 1464ha    田畑の浸水 3344ha

常願寺川流域の被害は、特にひどく、島村では村全体が21日間浸水し(田畑流失600ha)、被災村民(150戸)は下流村遠くは北海道に移住することとなった。

この惨状の中、富山の県知事森山茂は、早急に常願寺川の大改修が必要であるとして、デ・レーケ(*原文のまま)、高田雪太郎両技師等、最高の技師スタッフに難工事を託した。

(青色強調は引用者による)

 

 

2020年に常願寺川を見て「これは川ではない、滝だ」といったのはデ・レーケではなかったというニュースがありましたが、ムルデルが早月川を見て言った言葉だったようです。

 

その常願寺川の上流もまたデ・レーケに「これほどまでに荒れ果てた渓谷を見たことがない」と言わしめたのですから、「立山カルデラを治める」というのは想像を絶するような状況を克服することなのですね。

そして7月の大雨で「雪が溶ける」のも融雪洪水でしょうか。

 

 

 

 

(*)文中に「デ・レーケ」と「デ・レイケ」が混在していますが、文献によって「ヨハネス・デ・レーケ」「ヨハネス・デ・レイケ」「ヨハニス・デ・レーケ」「ヨハニス・デ・レイケ」と表記が異なるので、私は最初に出会った「ヨハネス・デ・レーケ」にしています。

 

 

 

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