運動のあれこれ 52 「榛名山麓のデ・レイケ堰堤を見守る会」

木津川支流の不動川のデ・レーケ堰堤について何かわかるかもしれないと購入した「詳説 デ・レイケ堰堤ガイドブック」でしたが、表紙に「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会代表 大林和彦」とありました。

 

 

*「見守る会」設立の経緯*

 

てっきり大学や資料館などの発行かと思っていたのに「見守る会」という自主的な運動体によるものだったことと、全国各地でその名を見かけるデ・レーケ群馬県も歩いていたことに驚きました。

 

その経緯が「序章」に書かれていました。

序章 「榛名の守護神」を後世に〜防災を行動に〜

 衝撃の出会いは7年前の夏に訪れました。榛東村(*しんとうむら)内の花の名所「ポピーの里桃泉」に出かけた帰り道、ふと「八幡川とデ・レーケ」(原文のまま)と題された説明板を発見。巨石砂防堰堤という具象として、筆者が住む村にも「わが国近代砂防の祖」ヨハニス・デ・レイケ(1842−1913:オランダ出身)の足跡が刻まれていたことを初めて知りました。

 長らく高校で地理歴史科教諭を務めてきた関係で、その名は防災・減災に劇的な効果を挙げた木曽三川分流工事を指導・完遂した「御雇い外国人」として記憶していた筆者でしたが、まさに「灯台下暗し」でした。

 早速、およそその築堤場所を書き込んだ地形図を手に八幡川の河床を遡上。際限なき藪漕ぎに閉口しましたが、陸上自衛隊相馬原演習場に隣接した杉林の木陰で4号堰堤を確認。堰堤本体の高さは約5mで、幅は10m超。その縄が緩んだような独特な天端の断面図は、先学の指摘通り、それぞれ形や大きさの異なる天然石を近世城郭の石垣のように堅固に積み重ねて完成。築堤には多大な労力を要したことはもちろん、優れた石工の技術が駆使されたに違いないと直感しました。

 さて、榛名山麓に現存する巨石砂防堰堤(通称「デ・レイケ堰堤」)の起源は明治時代初期まで遡ります。明治14〜18年度及び同27年度に滝の沢川や自害沢川、八幡川、唐沢川、榛名白川など、南・東麓を流下する諸河川の上流部に計120基築かれました。その大半は崩壊や埋没で地上から姿を消してしまいましたが、築堤後130年以上が経過した今日、なおも「榛名の守護神」として現役で地域防災に貢献しているものも少なくありません。

(*は引用者によるふりがな)

 しかし、防災対策の成功事例として顕彰されるべきデ・レイケ堰堤の惨状には言葉を失いました。堰堤直下には天端から投げ捨てたと思しきペットボトルや空き缶、ガラスの破片などが散乱。懐かしい昭和の家電製品の数々のほか、錆びついた自転車や三輪車なども転がっていました。巨石を積み重ねた堰堤本体も蔦や草に覆われ、目地に小低木の根が張り出すなど、東日本で唯一の希少な近代土木遺産は見るに堪えない有り様でした。

 こうした惨状を憂い、筆者は平成28年3月、国土交通省群馬県に協力を仰ぎ、「榛名山麓のデ・レイケ堰堤を見守る会」を設立。クリーン作戦への参加を通して、まずは八幡川からデ・レイケ堰堤の保存・顕彰に乗り出しました。以降、見守る会体は「防災を行動に」をスローガンに掲げ、デ・レイケの遺産を後世に受け継ぐことで榛名山麓における災害履歴の周知に努め、身近な地域の災害リスクを検証することの大切さを叫び続けています。

 

2014年に「八幡川とデ・レーケ」の案内板に出会い、2016年(平成28)に会を設立。そして2019年(平成31)1月から本格的調査を始めた内容がおよそ100ページにわたって記録されていました。

 

木曽三川分流堤でデ・レーケを知り、九頭竜川河口の三国港突堤でその名を見た時の感動、私がデ・レーケの遺した土木遺産に心が震えることと重なりました。

1世紀半前のこうした施設がなかったら。鉄道も橋も港湾も発展せず、頻繁に水害に襲われ、そして日常の水も得るのが大変だったことでしょう。

それらはまさに各地の「守護神」ですね。

 

 

*地理と歴史に基づいた運動*

 

前書きには著者のさらに深い動機が書かれていました。

 さて、群馬の自然災害を振り返る際、74年前のカスリーン台風に伴う豪雨災害は見落とせません。とくに赤城山麓の被害は凄惨を極め、沼尾川や赤城白川、荒砥川などで発生した土石流は瞬時に約三百名の人命を奪いました

 気象災害の記憶は榛名山麓にも刻まれています。それは「デ・レイケの遺産」として検証すべき石積み砂防堰堤です。通称「デ・レイケ堰堤」と呼ばれ、明治期に榛名山麓を刻む諸河川の谷に築かれ、当地の防災に限らず、利根川への土砂の供給を抑えることで流域の防災にも貢献してきました。カスリーン台風襲来時に榛名山麓の犠牲者は旧豊秋村(現渋川市行幸田)の2名にとどまっています

 そこで本書は、至宝の砂防遺産の現況を詳述し、保全・顕彰を求めると同時に、災害多発時代に相応しい防災のあり方についても言及。デ・レイケ堰堤が体現した防災ポリシーを明らかにするなかで、現場主義に立脚した形での地域防災の再構築に努め、有事に相応可能な防災体制の確立を提唱します。

 Show disaster prevention by action! (防災を行動に!)

(強調は引用者による)

 

利根川上流の左岸には赤城山そして右岸には榛名山が、まるで両側に富士山の斜面のように広がる風景です。

デ・レイケによる砂防ダムがあったかによって、カスリーン台風時の両岸の明暗がはっきりわかれたということでしょうか。

 

筆者ご自身が地理と歴史の正確な知識を得られる立場だったからこそ、出会った一枚の案内板から「土に埋まってしまうかのようなデ・レイケ堰堤がこの地域にもたらした遺産」に気づくことができ、防災という現実の行動へと結びついたのだと思いました。

 

 

 

*おまけ*

 

序章を読んでいるうちに、2019年5月に信濃川の関屋分水を訪ねた帰り道、上越新幹線の車窓から信濃川流域の広大な水田地帯からトンネルに入り、トンネルを抜けたら畑の風景だったことが印象に残ったことを思い出しました。

 

田んぼはないのだろうかと思っていたら「群馬用水」の歴史を知ったのでした。

むかしから・・・

赤城山・榛名(はるな)山のすそ野は、水の少ない地域でした。このため農家の人々は田んぼの水に苦労しており、はるか下に流れる利根川の豊富な水を使いたいと、長い間願っていました。

この願いをかなえるために昭和39年〜昭和45年に「群馬用水施設」が水資源開発公団により建設され、たくさんの水が使われる米づくりが標高の高いところでもできるようになりました。(群馬用水土地改良区のサイトより)

この本に出会ったおかげで、6年前に引用した箇所の行間を知ることができました。

もしデ・レイケがこの地域を歩くことがなかったら、砂防ダムの建設はだいぶ遅れ用水路建設にも影響していたかもしれませんね。

 

 

 

 

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