「ネスレ・ボイコットまでの経緯ー医学的議論はあったのか」で紹介した「母乳推進運動と人工乳の販売促進を規制する運動の歴史」年表では、1938年にシシリー・ウィリアムズ氏が加糖練乳について「ミルクと殺人」と講演をしたあと、一小児科医による粉ミルク批判が起こるのは30年後の1968年でした。
この間に、もう少し途上国での粉ミルク批判の根拠になるような医学的論文や議論があってもよさそうに思いますが、どこを探しても見つかりません。
たとえば、セーブ・ザ・チルドレンは「第一次大戦後の飢餓に陥った子どもたちを救う」ために1919年から活動を始めていますし、OXFAM、オックスファムは1942年に設立されたあと途上国で「飢餓に苦しむ人々へ食糧を供給することだったが、飢餓を引き起こす要因に対して、戦略的な解決方法を提言」する活動を行ってきました。
1980年代初めに、日本でも海外医療援助の団体が作られ始めた頃、これらOXFAM、Save the ChildrenあるいはCAREといった経験のある組織からたくさんのことを学んでいました。
私が働いた難民キャンプでも必ず、こうした援助団体が独自の活動を展開していました。
途上国で粉ミルクが乳児の健康に被害を及ぼすことが明らかであれば、まずはこうした団体の医師や看護師から声があがっても良さそうですが、1980年代の途上国や難民キャンプで活動するそれらの団体でも粉ミルクは必需品でした。
ただ、「衛生的な調乳方法を広げること」は大事なことだと認識されていました。
どこから途上国で粉ミルクを使うことへの批判が出たのだろうと、ずっと疑問に思っていましたが、今回ひさしぶりにスーザン・ジョージ氏の「なぜ世界の半分が飢えるのか 食糧危機の構造」(朝日選書257、1984年)を読み返して見つけました。
<1973年、ニュー・インターナショナリスト誌の記事が始まり>
「なぜ世界の半分が飢えるのか」ではp.219に以下のように書かれています。
1973年にネッスルのベビーフードをめぐるスキャンダルを最初に報じたのは『ニュー・インターナショナリスト』誌であった。この記事は、アフリカで30年以上乳幼児の栄養問題と取り組んできた二人の医師とのインタビューで構成されているが、そのなかで、二人はとくにネッスルの名をあげて、同社こそがアフリカの母親たちに母乳を放棄させ、人工授乳を押し付けた張本人だと語っている。母乳は病気に対する免疫性を与えるということだけから考えても、乳児にとっては最良の食べ物だというのがこの記事の趣旨である。
この二人の医師とはどのような人物であったかはわからないのですが、この二人の医師の主張が書かれています。
それについてはのちに考えていこうと思いますが、この「ニュー・インターナショナリスト」誌とはどのような雑誌なのでしょうか。
日本にも支社があるようです。
「New Internationalist(NIエヌアイ)について」には以下のように書かれています。
30年以上にわたり本質を鋭く突く報道姿勢を保ってきたNIは、その一貫した姿勢が評価されています。
これまでNIはマジョリティ・ワールド*で行われている乳児用粉ミルクに関する巧妙で問題となっているマーケティング法からビルマの人権状況まで幅広くカバーし、現在世界で5万5000人以上の人々が定期購読しています。
*世界の人々の過半数が住む開発途上国のことを、NIではマジョリティ・ワールドと呼んでいます。
その「NIの目的」として次のように書かれています。
ニュー・インターナショナリスト・ワーカーズ・コープ(労働者共同組合)は世界の貧困と不公正に関する問題を報道し、力を持つ者と持たざるものの不公平な関係に目を向け、人間として必要な最低限の生活をおくれないような人々がゼロになるような根本的な変化を求めて議論を巻き起こし、キャンペーンを繰り広げ、公正な世界を目指すために闘う人々、考え方、行動をもり立てます。
アフリカで働く二人の医師のインタビュー記事からキャンペーンを巻き起こしたそこには、医学的議論はなかったといえるでしょう。
だからこそ、1938年のシシリー・ウィリアムズ氏の「ミルクと殺人」が何度も亡霊のように使われることになったのだと思います。
「人間として必要な最低限の生活をおくれないような人々がゼロになる」という理想に向った、善意と正義の行動が「粉ミルク批判」の始まりだったようです。
「乳児用ミルクのあれこれ」まとめはこちら。