アフリカの地図には独特の特徴があることを、昔地理の授業で聞いたような記憶があります。
それはまっすぐな国境があることでした。
いかにも定規で引きましたという線で、国と国が隔てられています。
そもそも、「国」という概念がなかった。
部族社会であり、遊牧民など移動する民族も多かった。
そこに植民地として支配した側が、勝手に国境を定めた。
そんな内容の授業でした。
植民地主義によって、国境が定められ、支配者側によって土地の測量が行われ、地図が作られたのは東南アジアも同じ状況だったのでしょうが、アフリカの地図はさらにまっすぐな国境線が目立っています。
彼女の母国カメルーンの地図も、南側の赤道ギニア、ガボン、コンゴ共和国との境は直線に近いものです。
この国境は、彼女の国にとってどのような歴史を伝えるものなのでしょうか。
<「30の文化がある」>
電車の中で隣り合ったカメルーンの女性に「外国で小さなお子さんを育てるのは大変でしょう?」と質問したら、「そんなに悪くないけれど・・・」といいつつ「日本の食事はあまり好きではない。でもすしとラーメンは好き」とのことでした。
横道にそれますが、そう、ラーメンって立派な「和食」の代名詞ですよね。
すしも、どうしてあの独特の酸っぱい臭いのご飯が広く好かれるのか不思議ですね。もちろん、私も大好きなのですが。
さて、彼女にカメルーンの代表的な料理は何か尋ねてみました。
「うーん。私の国は30ぐらいの文化が混ざり合っているから、どれとは言えない」という返事が返ってきました。
私が暮らした東南アジアの某国も、100以上の民族があって、同じ数以上の言語がありましたので、彼女のニュアンスがわかりました。
隣の村でさえ公用語がなければ言葉が通じないぐらい、文化や風習が異なることに最初はとても驚きましたから。
もちろん日本も決して単一民族ではないし、言葉や文化には多様性がありますが・・・。
wikipediaのカメルーンでは、次のように書かれています。
ドイツ植民地から、イギリスとフランスの植民地に分かれた経緯がある。
1870年代になると、ヨーロッパ列強に数え上げられるようになったドイツ帝国が、アフリカ分割を背景に沿岸部の都市ドゥアラを中心に入植を開始した。
アフリカの年と呼ばれる1960年、フランス領カメルーンが独立した。
そして「民族集団は275以上に分かれている」「キリスト教が人口の約70%、イスラム教が21%、そしてアフリカの伝統宗教(アニミズム)が約6%である」と書かれています。
民族や宗教の違いが混ざり合い、織り成しあって、彼女の中では30ぐらいの文化に認識されるようになったのでしょうか。
<南カメルーン>
カメルーンの地図の左側に少し出っ張った地域がありますが、ここは南カメルーン連邦共和国の名前で分離独立を求めている地域と書かれています。
私が東南アジアの某国で1年ほど暮らした地域が、まさにこの南カメルーン連邦共和国と同じ立場でした。
最初にその国に赴任した時、「その地域は反政府ゲリラが活発で危険だから、絶対に行ってはいけない」と現地の友人から言われましたし、新聞やテレビでは常に「反政府ゲリラによるテロが頻発している」こと、いかに残虐な民族であるかのような情報が伝えられていました。
その数年後、私は縁あって「反政府的」な人たちと共に生活をすることになったのでした。
そこには、全く違う世界がありました。
「私たちは、入植してきた人たちを排除するつもりはない。ただ、我々の土地と生き方を守りたい。それが私たちの戦いなのだ」
きっと、南カメルーンも同じような状況なのではないかと思えるのです。
カメルーンの公式の地図には載っていないであろう、もうひとつの「国境線」があるのでしょう。
もう少し、カメルーンという国の国境について、そしてそこにあるさまざまな想いについて知ってみたくなりました。