幼稚園児から高校生まで四方を山に囲まれた地域で過ごしたので、人工林と自然林の違いを見分ける能力がある、とつい最近まで思っていました。
子どもの頃の遊び場であった裏山も、少し離れて見ると杉やヒノキの植林された場所と雑木林の境界線がきっちりとわかりました。
そのようにほとんど人の手が入っていない森林と植林をした人工林があって、さらに1990年代頃からよく耳にするようになった 里山の3つが私の中の「森林」のイメージでした。
そして、その奥深い森林はずっと大昔から大切に守られてきたものだと。
ところが、一世紀という時の長さだけでも悠久の森の姿ができることを知る機会が増えました。
私から見れば、明治神宮の森は縄文時代ぐらいからあったと思ってしまいますからね。
森林の歴史についてほとんど知らなかったことが気になっていたところ、偶然、富士山麓の森林について知りました。
<「ほぼ木が生えていない自然をどう守っていくか」>
たまたまテレビをつけたら、「カンブリア宮殿」の「観光新時代スペシャル!進化する富士山麓観光&人気の安くて自由な旅」を放送していました。
あまり観光地とかには興味がないのでチャンネルを変えようとしたら、富士急行と富士山麓の歴史話に惹き込まれていきました。
1926年(大正15年)に富士山麓電気鉄道として設立された富士急行の創始者が富士五湖の名付け親であったとか、1935年(昭和10年)に富士ゴルフ場を作った頃は「ほぼ木が生えていない自然をどう守って行くか」と植林を始めたことが紹介されていました。
当時の写真が映されていましたが、更地のような場所、おそらく富士山の溶岩が転がって草木も生えなかったような場所に人の手で苗木を植えていました。
現在、山中湖周辺は深い森林に覆われています。
半世紀前の私の子どもの頃も、すでに深い森でした。
富士山麓というのは、あの青木ヶ原のような森林にぐるりと囲まれていて、それは何世紀もかけて噴火の後の地面に自然に森林が出来たものだと思っていたのでした。
「自然な森」って一体なんなのでしょうね。
<林野庁の資料から>
富士山麓周辺の森の歴史を探していたところ、林野庁が2013年(平成25年)出した白書と思われる「2. 我が国の森林整備を巡る歴史」という資料が公開されていました。
その資料の「明治維新から戦前まで」にこんな箇所があります。
森林整備については、国有林において、明治22年(1899年)から大正11(1922)までの「国有林野特別経営事業」では、国有林野を払い下げた費用により無立木状態の荒廃地への植栽が積極的に行われた。
昭和4(1929)年には「造林奨励規則」が制定され、民有の無立木地への植栽に補助金が支出されるようになった。
もしかするとこんな時代背景の中で富士山麓の荒廃地に植林が進められて、一世紀後の現在、風光明媚な観光地を楽しむことができたのかもしれませんね。
さらに、「戦後森林の荒廃と復旧」を読むと、第二次世界大戦中に小学生も森林伐採に駆り出された時代背景が書かれています。
昭和10年代には戦争の拡大に伴い、軍需物資等として大量の木材が必要となり、これを満たすため未利用の森林伐採が行われた。終戦後も、主要な都市が戦災を受け、食料も物資も欠乏する中で、復興のために大量の木材を必要としたことから、我が国の森林は大量に伐採された。このような戦中戦後の森林の大量伐採の結果、我が国の戦後の森林は大きく荒廃し、昭和20年代及び30年代には、各地で台風等による大規模な山地災害や水害が発生した。
その白書の中に「第1回『植樹行事ならびに国土緑化大会』会場の様子」として、1950年(昭和25年)の山梨県の写真があります。
見渡す限り、木がない写真です。
1960年代に私が祖父母の家に遊びに行く時に見た裸山の風景は、やはり実際に見た風景だったのだと確信しました。
「自然な森」というイメージは、いかに頼りないものなのでしょうか。
「イメージのあれこれ」まとめはこちら。